[悪徳は社会の繁栄の源である] ベストセラー経済書『善と悪の経済学』(トーマス・セドラチェク)より

  

トーマス・セドラチェクの『善と悪の経済学』(2015年)を読みました。



チェコの経済学者トーマス・セドラチェク氏のベストセラー経済書です。


経済書なのに、数式やグラフは一つも出てきません。その代わり、ギルガメッシュ叙事詩、旧約聖書、プラトン、アリストレスなど、経済思想のルーツを徹底的に分析し、「よい暮らし、よき人生」のための経済とは何かをユニークな観点から指摘しています。


この経済書、個人的には生涯ベストの書籍の一冊となりました。


あまりにも内容が幅広くて、かつ深淵なので、ブログに要点を書き下すのはムリですが、最も衝撃的であった「悪徳は国家の繁栄の源である」という論点について以下に所感を含めてまとめました。

1. 善と悪の経済学

『善と悪の経済学』(2015年)は、NHKのドキュメンタリー番組「欲望の資本主義」でもお馴染みのチェコの経済学者、トーマス・セドラチェク氏のベストセラー経済書です。


以下はAmazonの紹介文の引用です。

2008年のリーマンショックを機に、経済学への信用は失墜した。

経済学は、いつから、どのようにして象牙の塔の学問となったのか?

失われた信用を取り戻すために、経済学はこれからどこへ向かえばいいのか?

チェコ共和国で大統領の経済アドバイザーを務めた気鋭の論客が、
神話、哲学、宗教、経済学の文献を渉猟しながら、21世紀の経済学の進むべき道を示す。

--経済学の歴史を深く知ることは、経済学の可能性を最大限に示してくれる。

--経済学は、その始まりのときと同じように、倫理の問題を取り扱うべきだ。

--経済の研究が、科学の時代から始まったわけではない。

刺激的な主張を繰り出し、経済学のルーツを探る旅に読者を誘う。

・チェコで7万部を超えるベストセラーとなり、15jカ国語に翻訳され、2012年にドイツのベスト経済書賞(フルランクフルト・ブックフェア)に輝いた話題作。

・チェコの初代大統領、ヴァーツラフ・ハヴェル氏によるはしがきつき

・チェコを代表する気鋭の経済学者による主流派経済学批判

・主流派経済学へのもやもやした不信感のすべてをずばっと記述!

・専門家がまゆをひそめるような刺激的な主張の数々。

経済学は物語の力を信じるべきだ/経済モデルは虚構、もっといえば神話にすぎない?/
人間はこれだけ好き勝手にやっていながら、それほど幸福でないとしたら悲しいことだ/
経済学者は何の予知能力も持ち合わせていないにもかかわらず、社会科学のなかで
いまだに将来予測にひどく熱心なのは、経済学者である。

(引用終わり)

Amazonのカスタマーレビューでは、4.4/5.0と高い評価を得ています。


著者のトーマス・セドラチェクは、年始のNHKのBS1スペシャル「欲望の資本主義 - 成長と分配のジレンマを越えて」<後編>」にも登場しました。

日本の哲学者、経済思想史家の斎藤幸平との対談は、とても面白かったです。


斎藤幸平の代表作であるベストセラー『人新世の「資本論」』も、読みやすく良書でした。


NHKの対談では、チェコ共和国という社会主義国と、日本の資本主義国の考えの相違を模索する形で進行しましたが、斎藤幸平はトーマス・セドラチェクのオーラに呑みこまれて、議論は圧倒されていた印象でした。

著者のトーマス・セドラチェクについて

1977年生まれ。チェコ共和国の経済学者。同国が運営する最大の商業銀行の一つであるCSOBで、マクロ経済担当のチーフストラテジストを務める。チェコ共和国国家経済会議の前メンバー。

「ドイツ語圏最古の大学」と言われるプラハ・カレル大学在学中の24歳のときに、初代大統領ヴァーツラフ・ハヴェルの経済アドバイザーとなる。2006年には、イェール大学の学生らが発行している「イェール・エコノミック・レビュー」で注目株の経済学者5人のうちのひとりに選ばれた。

本書はチェコでベストセラーとなり、刊行後すぐに15の言語に翻訳された。2012年にはドイツのベスト経済書賞(フランクフルト・ブックフェア)を受賞。

その、トーマス・セドラチェクの代表作である『善と悪の経済学』ですが、いやはや、この経済学者の歴史に対する知見が半端ない徹底ぶりで圧倒されてしまいました。

トーマス・セドラチェク(出典: 東洋経済オンライン

500ページあまりの大作ですが、経済書にしては意外にスラスラと読み進めることができました。

第1部 古代から近代へ
第1章 ギルガメシュ叙事詩
第2章 旧約聖書
第3章 古代ギリシャ
第4章 キリスト教
第5章 デカルトと機械論
第6章 バーナード・マンデヴィル─蜂の悪徳
第7章 アダム・スミス─経済学の父
第2部 無礼な思想
第8章 強欲の必要性─欲望の歴史
第9章 進歩、ニューアダム、安息日の経済学
第10章 善悪軸と経済学のバイブル
第11章 市場の見えざる手とホモ・エコノミクスの歴史
第12章 アニマルスピリットの歴史
第13章 メタ数学
第14章 真理の探究─科学、神話、信仰
終章 ここに龍あり

本著の内容はあまりに濃くて、概略だけでもブログに書き下すのはほぼ不可能。。。

以下では、第6章「バーナード・マンデヴィル  - 蜂の悪徳」以降に絞って

「悪徳は社会の繁栄の源である」

というセンセーショナルな論拠を中心に紹介します(以下太字は本文より引用)。

2. バーナード・マンデヴィルの『蜂の寓話――私悪すなわち公益』

以下はWikiからの引用です。

バーナード・デ・マンデヴィル(Bernard de Mandeville、1670年11月20日 - 1733年1月21日)は、オランダ生まれのイギリスの精神科医で思想家(風刺、散文)である。

主著『蜂の寓話――私悪すなわち公益』(原題 The Fables of the Bees: or, Private Vices, Public Benefits )は、多くの思想家に影響を与え、思想史、経済史などで重要な位置を占める。


(引用おわり)

マンデヴィルの登場を契機に、悪徳が栄えるほど物質的な繁栄が約束されるのだという議論がまかり通りようになった。

「神の見えざる手」「市場の見えざる手」というのは、一般的にはアダム・スミスの思想と考えられていますが、実は、個人の悪徳が全体の経済的繁栄につながるという考えを西洋の主流的思想に持ち込んだのは、アダム・スミスではなく、マンデヴィルでした。

彼の作品『蜂の寓話』では、繁栄する蜂社会で、嘘のない正義の社会を目指そうとした途端、いよいよ栄えて良い暮らしをするどころか、まったく逆のことが起きてしまいます。

盗難も犯罪も心配ない社会では、一事が万事で、多くの蜂は職を失ってしまいます。

判事、弁護士、検事も失業し、法の執行を監督する役人も不要に。

贅沢も暴飲暴食もなくなり、需要が激減して、農夫、執事、靴屋、仕立屋は商売が立ち行かなくなります。

好戦的だった蜂社会は平和志向になり、軍隊は廃止されます。

そして大勢の蜂は死に絶え、ごく少数だけが生き延びるも、別の群れに巣を追われてしまうという最後を迎えてしまう。。。

人々は悪徳に憤慨し、いかなる犠牲を払っても駆逐しようとするが、じつは社会の繁栄の源は悪徳にある。

マンデヴィルは、国富は悪徳に依拠すると断言する

宗教上の理想を実現したいなら、貧しく、「愚かにも罪のない」社会が形成される。倫理か繁栄は選ばざるを得ないのであり、そこにはトレードオフが存在する。

マンデヴィルのこの過激なアイデアは、当時、アダム・スミス自身でさえ明らかに距離を置き、マンデヴィルを名指しで批判していました。

部分の悪は、全体の善に起因するという考え方は、ギルガメッシュや新約聖書といった古い文献にも散見されます。

エスは、雑草は抜かないほうが良いと弟子を諭しました。

「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」

「あらゆる悪を防いだなら、多くの善は宇宙に存在しないだろう」 - トマス・アクィナス(対異教徒大全)

マンデヴィルの主張は、善意の上に社会が成立している(またはするべき)と考えている一般市民の感覚とは正反対のものですが、現代社会を冷静に俯瞰すると、否定することができません。

悪徳こそが、財(贅沢な衣装、食事、邸宅等々)あるいはサービス(警察、規則、弁護士等々)の有効需要を形成している

これはまさに莫大な資源の消費(あるいは浪費)の上に成り立っている現代資本主義経済の正体ではないでしょうか。

3. 強欲の必要性 - 欲望の歴史

本著の第2部は、標記の章で始まります。

ギリシャ神話の「パンドラの箱」、アダムとイヴのエデンの園の追放の物語


何不自由なく暮らしていても、それだけでは人間は満足できないことがわかる

人間は必要のないもの、それどころか禁じられているものを消費したがるという、まったく無用の性癖を備えている

芸能人が覚せい剤や大麻の所持・使用で逮捕されるというニュースは尽きませんね 笑

現代人は足りないものを教えてくれる人を必要としている - だから広告が現代社会に欠かせないのだ

教えられて初めて、もっと欲しいという欲が出てくる。動物のように暮らしている間は、不満もなければ願望もない

ごもっとも。。。広告なんて百害あって一利なし、と断罪するのはたやすいですが、実は、(欲に突き動かされる)資本主義経済の原動力そのものというわけです。

絶えず多くを欲しがるうちに、私たちは労働の楽しみを台無しにしてしまった。あまりに欲しがり過ぎ、あまりに働き過ぎている

耳に痛いですね。。。

効用の最大化、これも本著の大きなテーマです。

経済学では、人間は何をするときでも効用の最大化を図ると考える

ここで、「効用」とは具体的に何を意味するのか?

コリンズの経済学辞典では、

効用:財やサービスの消費から生まれる満足または快楽のこと

と定義されていますが、これは、同じ意味の言葉を繰り返しただけの一般的にはトートロジー(同語反復)と呼ばれるもので、当たり前ですが、A=Aと必ず正しい結論になるので、中身のない文章です。

効用とは、平たく言ってしまえば、

人はしたいことをする

というだけなのです。

4. 歴史上の学派の善悪軸

第10章では、現代の主流派経済学が、善悪の判断(倫理学)を避けて議論されていることの弊害を指摘します。

善は報われるという善の効用度合を軸にして、歴史上の学派の位置付けを比較した下の図(359ページ)は非常にわかりやすいものです。


左端のカントは、倫理に関して最も厳格であり、逆に右端のマンデヴィルは、これまでの説明のとおり、経済と倫理の逆相関関係という最も過激な主張です。

5. 善に従属する悪

個人的には最も印象に残った、悪に関する考察です。

悪はなぜ生まれるのだろうか。ヘブライ思想では、悪はつねに善の従属関係にある。

アウグスティヌスは、神と善は同一次元にあるが、悪魔と悪はそうではないと主張した。

悪魔は、一部の伝説では神への反抗者とされているが、実際には神の天使の一種なのだという。

この考えは、映画『コンスタンティン』を観たときに、サタンの正体と悪の起源について調べた内容と一致します。

映画『コンスタンティン』: 現代社会の悪魔との戦いに潜む、サタンの正体と悪の起源とは

以下はそのブログからの抜粋です。

悪魔の定義は、ギルガメッシュ叙事詩といった古代の伝記に登場して以来、時代の変遷とともに大きく変わってきました。

特に、悪魔の代名詞として用いられる「サタン」は、新約聖書の時代にキリストを誘惑するのですが、それは

キリスト自身が人であると同時に神であるのと同様、サタンもまた邪悪な人であると同時に「堕落した」神だと言える

のです。

裏切りの場面に向けてサタンはユダの「中に入る」のであるが、いっぽう黙示録においてはサタンは竜であり、宇宙的規模で天使長ミカエルに敵対する

サタンの解釈は、時代とともにダイナミックに変遷するのですが、同じ新約聖書の福音書によっても異なります。

マルコ福音書とマタイ福音書では裏切り者ユダは金目当てに行動するが、ルカ福音書とヨハネ福音書では、サタンの手引で行動する

古代メソポタミアや紀元前二千年のカナンの神話に登場するサタンが、長い時を経て旧約聖書や新約聖書といった紀元前三世紀以降のサタン神話にまで伝達・伝承されたのは、アッシリアのニエヴェ図書館といったコレクションによって後世に伝えられたことからです。

スケールの大きい話に圧倒されます。。。

ユダヤ教の神ヤハウェは、全能であり唯一の神ですが、人間に対して極めて厳しい(容赦しない)のは有名ですね。

ヤハウェは、時にイスラエルの民に対して暴君のように振る舞うのです。


旧約聖書においては、サタンは天の宮廷のメンバーとしてヤハウェに仕え、人間が悪事を働かないように監視するのが役目でした。

それがなぜいつの間にか「宇宙的敵対者」になってしまったのか?

旧約聖書のヨブ記は、いつ、どこで書かれたか不詳ですが、唯一神のヤハウェが悪を生み出したとしています。

ヨブ記のサタンはまだ堕落天使ではなく、神に仕えていたのです。

前述のように、ヘブル語のśâṭānは、元の意味が「道をふさぐ」「じゃまをする」という意味で、それ自身に必要悪はありませんでした。

それが、時代を経て、「つまづきの石」(英語のstumbling block)という悪い意味に変わり、「つまづきの石」のギリシャ語skandalonは、英語ではscandal(醜態)やslander(中傷)という意味を伝えるようになってしまいました。

旧約聖書にダビデが登場するあたりで、おとり捜査官として神の代理をしているサタンが、

神の行為者であることをやめ、みずからの意志で行動する、つまり、神にとって代わったのである

これは第二サムエル記に明記されているそうです。

こうしてサタンは、天の法廷の役人から、独立した反逆者・敵対者へと変身しました。

ではなぜサタンはヤハウェに対して反逆を行ったのか?

 「天国で仕えるより、地獄で統治せよ」"Better to reign in Hell, than to serve in Heaven"(ジョン・ミルトン『失楽園』)

映画『ディアボロス/悪魔の扉』(1997)で、アル・パチーノ演じるジョン・ミルトン(=サタン)のセリフは、この「失楽園」から引用されています。

サタンが神から与えられた使命に不満を持ったのは、天使よりも格が低い劣等な知的生命体である人間の守護天使に任命されたことが、サタンとなった天使の誇りを傷つけたために、神の創造の目的を挫折させて一矢報いたいと考えたのがサタンとなった天使の反逆の動機だったという説です。

サタンは、人間の監視役として、神の似姿をしたアダムとイブを拝めと天使ミカエルに言われたのですが、それを拒否したので、神に栄光の座から追放されてしまいました。

その反動で、快楽のうちに生活しているアダムとイブを恨み、自分たちが追放されたように、アダムとイブも巻き添えにした、というわけです。

エノク書によると、人間を見張る天使たちが、人間のうるわしく美しい娘たちに誘惑されて、それが罪であることを知りながら肉体関係を持ってしまったとあります。

その結果、天使と人間の間に巨人ネフィリムが生まれ、天使が人間に与えた禁断の知識(鉄から武器=戦争をつくったり、金銀から装飾品=誘惑をつくること)とともに、地上のあらゆる悪行の源となりました。

そのネフィリウムを地上から追放するために、神がノアの洪水を起こしたというわけです。

つまり、サタンとは、ヨブ記では神に仕えており、第二サムエル記では、神に反逆した堕天使であり、エノク書では女性の人間に誘惑された天使であり、アダム書では、イブに知恵の木の実を食べるよう誘惑した蛇と、それぞれ解釈が異なるようです。

そもそも全能の神が、なぜ世の中にサタン、つまり戦争や飢饉といった「悪」を生んでしまう事態を阻止できなかったのかという疑問が沸きます。

キリスト教というのは、長い歴史でみると、

特異なメシア信仰を持つユダヤ教黙示的グループの一つとして始まった

ということで、実は、ユダヤ教から派生した別の思想がありました。

それが、グノーシス主義という、反宇宙的二元論です。

以下は、「グノーシス主義」からの引用です。

世界が本来的に悪であるなら、他の諸宗教・思想の伝える神や神々が善であるというのは、間違いであるとグノーシス主義では考えた。つまり、この世界が悪であるならば、善とされる神々も、彼らがこの悪である世界の原因なので、実は悪の神、「偽の神」である。そのため、彼らは悪の世界(=現実)は「物質」で構成されており、それ故に物質は悪である。また物質で造られた肉体も悪である。なら、「霊」あるいは「イデア」こそは真の存在であり世界であると考る

(引用おわり)

グノーシス主義は、二元論です。以下Wikiより引用します。

神学における二元論は、世界における二つの基本原理として、例えば善と悪というようなお互いが背反する人格化された神々の存在に対する確信という形で現れている。そこでは、一方の神は善であり、もう一方の神は悪である

(引用おわり)

この世には悪と善という二人の神がいるという二元論に対して、キリスト教は、この世には全能の(善い)神がただ一人しかいないと真っ向から対立します。

キリスト教は、ユダヤ教から派生した急進的カルトとして出発し、パレスチナの地域宗教に過ぎなかったのですが、やがてグノーシス主義は異端とされ、キリスト教が「正統派」として体系化されました。

以下私見ですが、冒頭の「全能の神が、なぜ世の中にサタン、つまり戦争や飢饉といった「悪」を生んでしまう事態を阻止できなかったのか」という疑問は、その問題提起自身が、人間を世界の中心に捉えた考え方から脱却していないのではと思います。

ヨブ記にあるように、人間は、神の計画の中心でも目的でもなく、神の活動の目的は人間の活動を超越したところにあるので、人間に災難が降りかかるのは、因果応報でもなければ、人間の知る由ではないのではと。。。

死海文書、創世記、ヨブ記、エノク書、グノーシス主義。。。サタンの神話学について調べるうちに、実に様々なことが明らかになり、現在の確立されたキリスト教だけでは知りえない深淵な世界を垣間見ることができました。

(以下ネタバレですが)映画『コンスタンティン』では、サタンだけでなく、天使のガブリエル(聖書に出てくる大天使ガブリエルとは別)までもが、人間への嫉妬のために、まさかの裏切りを行うという斬新なシナリオになっています。

天使や悪魔の位置づけが、時代の変遷とともに大きく変わってきたことを考えると、この映画で描かれているような、現代社会にマッチした新解釈というのも大いにアリではと思います。

(抜粋おわり)

悪は、善から目的を借りて来なければならない。というのも、悪には固有の目的がないからである。

言うなれば、悪はつねに善に寄生している。

人間が何か悪いことをするときには、必ず正当化する理由を持ち合わせている。悪を行う者の価値観がいかに歪んでいようとも、悪の理由は必ず何かよいことなのだ。

これは説得力のある主張ですね。。。悪を行う人間は、自らの効用の最大化を図っている、つまり、「自分のしたいことをしている」という立派な大義名分があるということでしょうか。

個人的には、悪はつねに善に寄生しているというのが、現代資本主義経済、ひいては、人間のあらゆる生活シーンの根幹と考えています。

モーガン・フリーマン『時空を超えて』の「「悪は根絶できるのか」の回では、悪を排除すること=邪悪な行動をコントロールすることはできるかを検証しています。


サイエンス番組らしく、登場する心理学者や神経科学者たちは、あの手この手の手法で、人間の心に潜む「悪魔」の正体を突き止めて、邪悪な衝動を消し去り、人間性を善なる方向に導く手段を探しています。

しかし、悪はつねに善に寄生するのであれば、諸悪の根源を絶やすことは不可能に思えてなりません。

再び映画の話題で恐縮ですが。。。

映画『ディアボロス/悪魔の扉』は、資本主義に魂を売り渡した人間と悪魔の取引がテーマでしたが、それに関連して、「不道徳な見えざる手」(ジョージ・A. アカロフ/ロバート・J・シラー共著、2017年)と「格差は心を壊す」(リチャード ウィルキンソン/ケイト ピケット共著、2020年)にも言及しました。

映画『ディアボロス/悪魔の扉』: 資本主義経済の悪魔は人間の心の中に潜んでいるのか


副題に「自由市場は人間の弱みにつけ込む」、とあるように、自由市場が如何に消費者をカモにして騙し続けているかという内容です。

広告業界、自動車、住宅、クレジットカード、食品、医薬品、金融市場全体、そして政治まで。。。

資本主義経済は、釣りとカモの経済で、如何にごまかしに満ちているかというのが本著の内容です。

これを読むと、現代の自由主義社会というのは、聞こえはいいけれど、悪魔が大喜びするような世界ですね。


まあ格差といっても、「資本の格差」「教育の格差」「地域の格差」「身分の格差」などいろいろな格差がありますが。。。

悪をテーマにした映画は傑作が多いですね。


マンデヴィルの「蜂の寓話」から、悪徳こそが、財(贅沢な衣装、食事、邸宅等々)あるいはサービス(警察、規則、弁護士等々)の有効需要を形成している、という事実は、資本主義経済の真髄を突いていますね。。。

6. 所感

著者は、現代経済学がテクニカルな分析を偏重するあまり、かつては重視されていた倫理や道徳といった要素を排除しているトレンドに警鐘を鳴らしています。

どこまで行っても人間を幸福にできない資本主義経済は、限界を迎えており、人類と地球が破綻する前にスローダウンしようではないか、と著者は提言しているのでしょう。

『善と悪の経済学』は、経済書としては異色の内容ですが、私の生涯ベストの書籍の一冊となりました。


(2022年8月19日 追記)
セドラチェクvs斎藤幸平の対論記事が発刊されました。


記事のリンクを貼っておきます(コチラです)。

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