石油採掘王を描いた映画『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』は果たして21世紀の最高傑作なのか

映画『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(2007年)は、20世紀初頭のアメリカ西部で石油王にのし上がったダニエル・プレインヴューの、魂の破滅を描いた鮮烈な人間ドラマです。


主演のダニエル・デイ=ルイスは、この作品でアカデミー主演男優賞を受賞しました。

『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』は、NYタイムズが選ぶ21世紀のベスト映画25で堂々の第1位、英BBCが選ぶ21世紀のベスト映画ベスト100でも第3位に選ばれています。

先日レンタルして自宅で鑑賞する機会があったので、映画のレビューを記事にしてみました(以下ネタバレを含みます)。

1. 映画の概要

以下はWikiサイトからの引用です。

『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(原題: There Will Be Blood)は、アプトン・シンクレアの『石油!』を原作としたアメリカ映画。アメリカではパラマウント映画の配給により2007年12月26日に公開、日本ではウォルト・ディズニー・カンパニーの配給により2008年4月26日に公開。

第80回アカデミー賞では作品賞を含む8部門にノミネートされ、主演男優賞と撮影賞を受賞。

タイトルの "There will be blood" は、旧約聖書出エジプト記の「十の災い」の中の一文、"There will be blood everywhere in Egypt." (Exodus 7:19) に由来するもので、「いずれ血に染まる」の意。


また、以下<ストーリー>はAmazonの商品紹介サイトからの引用です。
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<ストーリー>
20世紀初頭のアメリカ―。一攫千金を夢みるダニエル・プレインヴュー(ダニエル・デイ=ルイス)は、山師として鉱山の採掘を行っていた。


野心家の彼は、交渉の場にいつも相手の警戒心を解くために、幼い息子H・W(ディロン・フレイジャー)を連れていた。


ある日、ある青年から故郷の広大な土地に石油が眠っていると言う情報を得た彼は、西部の小さな町リトル・ボストンへおもむく。作物も育たない見渡す限りの荒野のこの寂れた町で、プレインヴューは次々に安価に土地を買い占めていった。


そして、その地で見事に石油を掘り当て、莫大な財産を手中に収め、辺境の地に繁栄をもたらす。


しかし、住民の絶大なる信頼を集めるこの地のカリスマ的牧師イーライ・サンデー(ポール・ダノ)は、土地を荒らし、教会への寄付の約束を守らないプレインヴューの存在を、彼が律してきた共同体の秩序を乱す存在として疎ましく感じていた。


そんな中、油井やぐらが爆発炎上するという大事故が起こる。爆発により吹き飛ばされたH・Wは、命はとりとめるものの聴力を完全に失ってしまう。


息子を襲った悲劇により、辛うじて保たれていたプレインヴューと共同体との危ういバランスは完全に破壊されていく。事業は、上手く進むかに見えたが、人間不信になっていくプレインヴュー。他人との絆を一切求めず、富と権力のみを求める彼の欲望は、怪物的なまでに肥大化していく。欲望と野心、そして腐敗といったさまざまな悪徳をその身に宿し、その魂は破壊への道を辿っていく・・・。
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Amazonのカスタマーレビュー(投稿数685)では、4.5ポイントと、一般の評価もかなり高いですね。

この映画は、ダニエル・デイ=ルイスの怪演、そして秀逸な音楽と映像美が特徴の、ゴツゴツとした人間ドラマですが、恋愛という典型的な映画の要素を除外し、主要人物の男性3人(プレインヴュー、その子供のH.W. そして牧師のイーライ)の人物像に特化しています。

冒頭のシーンからして、セリフが一切入らず、無味乾燥な荒野を背景にただならぬ気配です。

冒頭のシーン

まるで、この映画の主人公プレインヴューの荒廃した人生を暗喩しているようですね。

不穏さを増長するような不気味なメロディを背景に、プレインヴューが如何に「石油屋」にのし上がったかを淡々とした描写で映画は進みます。


原油まみれの肉体労働者や、貪欲な石油業界の資本家など、映画を通してゴツゴツとした男性のみが登場し、女性はせいぜいH.W.の幼馴染み(将来の妻)くらいしか描写されません。


ダニエル・デイ=ルイスは本作でアカデミー主演男優賞を受賞しました。彼は史上唯一のアカデミー主演男優賞を3度も受賞した名俳優として歴史に名を遺しました(現在は俳優活動を引退しています)。

この映画のダニエル・デイ=ルイスは、何かに取り憑かれたような恐ろしい気迫を感じます。

映像が息を呑むほど美しいことも特筆すべきです。

砂漠の鉄道駅

何もないだだっ広い砂漠にポツンと存在する鉄道の駅。如何に辺鄙な田舎町かが伝わってきますね。

採掘場

ほとんどのシーンが無味乾燥な砂漠や平原なのですが、パイプラインを通して船で輸送する構想で、真っ青な海が登場します。砂漠とのコントラストが鮮やかです。

砂漠に面した海

2. 宗教、家族、富と名声

この映画のテーマは「宗教」「家族」そして「富と名声」です。

時代背景は、20世紀初頭の北米での油田ブームなので100年以上昔の話ですが、「宗教」「家族」そして「富と名声」の本質は、今も昔もほとんど変わっていません。

『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』では、ともすれば美談として語られるに過ぎないこの3大テーマの暗部に鋭く切り込み、人間の持つ弱さやずる賢さ、汚さといったものを曝け出します。

それは、「宗教」の見かけ上の崇高さに対する偽善や、「家族」の建前だけの関係、「富と名声」の顛末といった形で登場します。

3. H.W.

H.W.とは、プレインヴューが育てた孤児の名前です。

作業中に不慮の死を遂げた同僚の赤ん坊を、自分の子供として育てることになるのですが、赤ん坊のミルクにウィスキーを混ぜて無理やり飲ませるなど、育児は虐待そのものです。

赤ん坊のミルクにウィスキー

ミルクにウィスキーを混ぜて無理やり飲ませるのは、H.W.が少年に成長したあとも変わりません。

少年H.W.にもウイスキー入りミルク

プレインヴューが苦労して自分の子供でもない赤ん坊を育てたのは、単にビジネスの席で相手の同情を惹くために利用したかったからです。

一方、公の場では、「家族とは子供、子供とは教育です」とヌケヌケと発言し、教会に集う聴衆を自分の味方に引き込む話術を発揮します。


一方、石油のビジネス交渉の場では、相手に子供のことを言われただけで、過度に反応して、交渉を台無しにするといった過剰反応を示すのは、プレインヴューの自負心とプライドが人一倍高いことの現れでしょうか。


プレインヴューのH.W.に対する父親としての感情は実に複雑です。

爆発現場では、真っ先にH.W.を助けに駆けつけたものの、火災を鎮めるために、本人の懇願を無視して置き去りにしてしまいます。



現代社会でいえば、家族を養うためには、父親は仕事を常に最優先にして、家族の気持ちは二の次ということでしょうか。

それでも、プレインヴューはH.W.を自分なりのやり方で愛していたのは間違いありません。下の添い寝のシーンなどはそれを象徴していると思います。


油田の開拓をしながら、男手ひとつで孤児を赤ん坊から育てるというのは、想像を絶する困難が伴ったにもかかわらず、プレインヴューはその道を選びました。

なぜか?

ひとつは、商売に有利だったということもあるでしょうが、プレインヴューはH.W.を将来の共同経営者にして、いずれは事業を後継させたかったのでしょう。

しかし、そのようにはうまく進みませんでした。

プレインヴューがある晩ヘンリーと語り合うシーンで、プレインヴューはこう言います。

「私は人が何を考えているか瞬時にわかる」

「長い間に少しづつ憎悪を積み重ねてきた」

これは、H.W.が自分に対して「長い間に少しづつ憎悪を積み重ねてきた」ことをプレインヴュー自身が認識していたことを意味しているのでしょう。

H.W.が成人になって、既に引退したプレインヴューの元を訪れるシーンがあります。


手話で「まず父さんを心から愛していると言いたい」と話すH.W.の偽善の態度にプレインヴューは、「本音で話せ」と咎めます。


H.W.がサンデー家の次女と一緒にメキシコで石油事業を興して「父さんから離れたい」という本音を喋ると、プレインヴューは猛烈に逆上して、その場でH.W.を勘当してしまいました。

プレインヴューの忌み嫌うイーライの妹と結婚し、商売敵となる石油事業を興すというのは、H.W.としては、それが最大の父親に対する復讐だったのでしょう。


虐待を行ったとはいえ、プレインヴューが苦労して育て上げたH.W.も、こうして自分を裏切って去ることになったわけです。

H.W.がプレインヴューと断絶するシーンですが、かつての親子の回想シーンが流れます。


油田堀りに邁進していた時代の、良い親子関係の思い出のシーンですね。

H.W.が事故に遭わずに聴力を失ってなかったら。。。プレインヴューが「第3の啓示」教会で懺悔したときに、親子関係の修復に本気で取り組んでいたら。。。

4. ヘンリー

ヘンリーとは、ダニエルと腹違いの弟と名乗って突然現れた男です。

プレインヴューはヘンリーを信用して一緒にビジネスパートナーとして過ごすものの、やがてヘンリーの正体が、詐欺師であることを見抜き、ピストルで射殺します。

プレインヴューがある晩ヘンリーと語り合うシーンは、個人的には映画のハイライトだと思っています。

プレインヴューは、「私は競争心が強い」「他人を成功させたくない」「人を嫌悪している」「人を見ても好きになることがない」と本音を打ち明けます。


人を嫌悪していると本心を打ち明けるプレインヴューに対して、失敗の繰り返し人生だったヘンリーは、「あらゆることがもうどうでもよくなった」と返します。


プレインヴューの「独善」「貪欲」に対して、ヘンリーの「厭世観」「無気力」。。。この二人の対極的な性格は、どちらも最終的には破滅に繋がることになります。

ヘンリーは実は身元を偽ってプレインヴューの弟のフリをしているので、身内だと信じていたプレインヴューは、本心を打ち明けているのです。

何の事業経験もないヘンリーを、重要な交渉の場に同席させるのも、H.W.が跡継ぎにも共同責任者にもなり得ないと悟ったプレインヴューが、ヘンリーをその代わりにしたいと期待していたからです。

ヘンリーの嘘がバレたあとに、無害なヘンリーを何の躊躇もなくピストルで射殺して埋めてしまったのは、血の通った兄弟だと信じていたヘンリーの裏切りを許せなかったのでしょう。

プレインヴューに銃を突きつけられたヘンリーは、プレインヴューの本当の兄弟は、結核で死んだと告げます。

本当でしょうか?

二人とも金がなかったので訪ねることができなかったということですが、ではなぜヘンリーはプレインヴューをはるばる訪れることができたのでしょうか?

本当はヘンリーがプレインヴューの兄を騙したのか、ひょっとしたら殺して、プレインヴューの兄弟に成りすましたのかもしれません。

ヘンリーの態度は終始魂の抜けた殻のようだったので、ヘンリーが死の直前に話したことは全て真実だったかもしれません。。。

5. イーライ

「第3の啓示」という教会のイーライ・サンデー牧師は、キリスト教の教義を忠実かつ厳格に守る保守派の象徴です。


最初の出会いのシーンでは握手をしていますが、まさか将来、自分がプレインヴューにボウリングのピンで撲殺される運命にあるとは夢にも思っていなかったことでしょう。

ウズラ狩りに来たと偽ってやってきたプレインヴューには、最初は親切に対応しますが、彼が土地買収を彼の父親に持ちかけた途端、プレインヴューの本性を見抜きました。

しかし、彼も俗物的な性格であり、「第3の啓示」教会へ5000ドルの寄付を行うという要求で、プレインビューの土地買収提案に合意してしまいます。

私利私欲が、プレインヴューの野心に付け入る隙を与えてしまったわけです。

契約を交わすプレインヴューとイーライ

この安い値段で土地を手放してしまった失敗が、後に大きな禍根となり、父親を罵倒して暴力まで振るうことになるわけですが、契約時にはイーライは父親を差し置いて自分自身の判断のみでプレインヴューと契約してしまったので、責任は父親ではなくイーライにあるのです。

教会で信者に対して悪魔祓いをするイーライに対して、プレインヴューは「見事なショーだった」と皮肉を言うのですが、イーライはそれを受け流します。


映画の終幕でイーライは、プレインヴューとの取引条件として「僕は偽預言者、神は迷信だ」と自らの信仰を全否定させられることになります。


果たしてイーライは善良な信者だったのでしょうか?

プレインヴューの踏み絵の試練を、あくまで「教会を救うため」と割り切って、神を否定したのでしょうか?

またプレインヴューはなぜそこまでイーライに対する敵意を剥き出しにする必要があったのでしょうか?

物語の前半で、教会への寄付を迫るイーライを、プレインヴューがボコボコに殴って、石油の池のなかに突っ込んで「お前を亡き者にしてやる」と恐喝するシーンがあります。


私は、イーライが村の信者の信頼を集めて成功者になっていることへの嫌悪、嫉妬心がプレインヴューを駆り立てたのだと思います。

プレインヴューは、自分の興した事業は大成功だったかもしれませんが、事業継承には失敗し、後継者もいなければ、自分の側にいるのは年老いた執事だけという惨めな老後を過ごしています。

それは、彼が生涯を通じて「家族」よりも「富と名声」を常に優先していたからに他なりません。

映画のラストシーンで、プレインヴューがイーライを追い詰めて、ボウリングのピンで撲殺するのは、以前、土地の買収のために第3の啓示教会で、皆の前で息子を見捨てたことの懺悔を強要させられた恨みがあったからでしょう。


スタンダードオイルの交渉人に対しても異常とも思えるほどの敵意を剥き出しにしたくらいですから、この懺悔のときのヘンリーへの憎悪や屈辱感は想像を絶するものであったに違いありません。


H.W.に裏切られ、事業継承も失敗し、生活は廃退し、富と野望はすべて達成した心境で、唯一やり残したことがイーライの抹殺だったのでしょう。

イーライを撲殺したあとに、「終わった」(I am finished)と言って映画は幕を閉じます。


プレインヴューの人生はここですべて「終わった」わけです。

家族は持たず、信仰心も持たないで、石油事業の富と名声だけに生涯を捧げた彼の人生は一体何の意味があったのでしょうか?

冒頭シーンの無味乾燥な荒野から始まり、再び無味乾燥な荒野のように終わる人生、何も変わらない、何も残らない、そんな無情なメッセージが映画の余韻として残ります。

6. 感想とまとめ

映画を観終えた直後の正直な感想は、「これは果たして21世紀の映画の最高傑作と絶賛されるだけの名作か?」でした。

確かに、石油業界の発展を背景とした米国の栄光と闇を鋭く浮き彫りにした人間臭いストーリーは見ごたえがあるし、インパクトのある心にズシンと響く映画でした。

しかし、同じように21世紀の映画の最高傑作と称されるデヴィッド・リンチ監督の『マルホランド・ドライブ』のような、映画特有の芸術マジックは感じることができませんでした。

この映画は、2008年の第80回アカデミー賞で作品賞にもノミネートされたのですが、コーエン兄弟の『ノーカントリー』に敗れています。

その『ノーカントリー』と『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』は、どちらも偏執狂の男を描いていることや、荒廃した砂漠が舞台の点など、意外にも共通したものがあると思いました。

もしかしたら、石油や油田開発は、日本人には想像できない欧米人にとっては特別の思いがあるテーマなのかもしれません。古くはジェームス・ディーンの『ジャイアンツ』や、80年代には『ダラス』というTVドラマが流行りましたね。

『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のテーマが、現代の病めるアメリカ社会を象徴する「宗教」「家族」「富と権力」を扱っているのが高い評価に繋がっているのかもしれませんね。

繰り返し観るうちに、ひょっとしたら最初は感じられなかったものに気付くというのは映画を観ると良くあることなので、これからも何度か観返してみるつもりです。

また、映画の原作であるアプトン・シンクレアの『石油!』、700ページの大作ですが、読んでみようと思います。

アプトン・シンクレアの『石油!』



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