[終戦記念日] 実家の父(90歳)に訊いた戦時中の苦労話と、大昔のアルバムの写真


今日8月15日は日曜日、76年目の終戦記念日です。


いつものように、実家で1人暮らしをしている90歳の父を訪ねました。


私が訪ねたときには、父はちょうどTVで全国戦没者追悼式を見ており、父は最近見つけたという昔のアルバムを出してきて、終戦記念日にまつわる話をしてくれました。



以下備忘録です。

1. 昭和20年春

父が生まれたのは、昭和7年3月、東京の阿佐ヶ谷です。

9つ年上の長女、7つ年上の長男、5つ年上の次女、そして3つ年上の三女の5人兄弟の末っ子でした。

祖父と祖母は、岡山県の出身でしたが、当時祖父が勤めていた日本鉱業(後のジャパンエナジー社)で、佐賀関から東京へ転勤となったそうです。

私の祖父

祖父は、私が生まれる前に亡くなっているので、直接は知らないのですが、父によると、典型的な昔気質の性格だったそうです。

当時の阿佐ヶ谷の実家の住所はもう忘れてしまったそうですが、父が当時通っていた東京市杉並第六国民学校(現在の杉並区立杉並第六小学校)に近かったとのことで、地図では阿佐ヶ谷駅と高円寺駅の中間あたりでした。

杉並区立杉並第六小学校

実家は二階建てだったそうで、残念ながら写真は残っていませんが、下の写真は実家の門だったと話していました。

父と実家の門

昭和20年3月10日の東京大空襲の日は、奇しくも父の13才の誕生日でしたが、阿佐ヶ谷の実家の2階から、東の空が真っ赤に明るく燃えているのを見たことをハッキリと覚えているそうです。

このままでは危険ということで、父と兄弟たち(20才の長男は出兵中)は岡山の親戚の元に疎開することになりました。

長女は、幼少時代に肺炎であっけなく亡くなったそうです(当時は珍しくなかった)。

次女は、桜蔭学園に通うほどの才女だったそうですが、生まれつき心臓が弱かったため、学校を休んで阿佐ヶ谷の2階の部屋で療養中でした。

その次女と一緒に、父は岡山の金光という場所(金光教の本拠地で有名)に、父の母親の兄弟の元に預けられました。

岡山県浅口市金光町大谷(早馬神社)

ちなみに、岡山までは夜行列車に乗っての長旅だったそうですが、当時13才の父にとっては、たった一人で病気の姉の面倒を見るのが大変だったそうです。

その次女は、疎開先の金光の地で、終戦の10日前に持病の心臓が悪くなり、亡くなってしまいました(享年17才)。

残念ながら、長女や次女の映っている写真は一枚も残っていません。

当時、金光の地でたった一人の親族であった父が、葬式や埋葬などいろいろ手配をしなければならず、苦労したようです。

また、訃報を、郵便で東京の実家の両親に伝えるために出した手紙は、20日後くらいに実家に届き、死に際に立ち会うことができなかった両親は大変悲しんだそうです。

当時は、終戦直前の大混乱期であり、私用の電話は論外、手紙も検閲が入るので、それだけ遅くなったということですが、むしろ、世の中の混乱のなかで、岡山から東京まで訃報が無事に届いたことが驚きのような気もします。

同年5月23日の空襲(こちらの情報では5月25日)では、阿佐ケ谷南1丁目(旧馬橋地区)の杉並第六小学校を中心に、焼夷弾が落ち、同校は全焼してしまったという記録が見つかりました。

この空襲では、55人の死者を出したとあるので、比較的大規模な空襲でした。

阿佐ヶ谷の実家も、その空襲による延焼のせいで被害を受けたそうです。

今日父が引っ張り出してきたアルバムは、おそらく阿佐ヶ谷の実家からどこか別の場所に移しておいたおかげで焼失を免れたのかもしれません。

父のアルバム

最初のぺージに、父の赤ん坊のときの写真があります。

父の赤ん坊時代

おそらくどこかの写真館で撮影したものでしょう。なかなか可愛い 笑

同じページには、お手伝いさんに抱きかかえられた写真が何枚かありました。

下の写真は、父と姉(三女)が一緒の写真です。

父と姉(次女)

服装がいかにも戦前という感じですね。。。他にもいろいろな写真が出てきました。

父の兄

父の祖母(父方)

父の祖母(名前は只)は、しばらくは一緒に暮らしていたそうです。嫁と姑の関係ですね。

父の子供時代

父の兄

父の兄は、予科に通っていた昭和17年(?)に、赤紙(召集令状)が届き、近隣住民が総出で送り出したそうで、その様子は父も良く覚えているそうです。

幸いにも、四国の陸軍歩兵師団に所属していたため、戦地へ出征することもなく、終戦後は無事に帰郷しました。

ちなみに、フィリピンなど太平洋の島国に出征した父の兄の友人たちは、ほとんどが帰らぬ人になったそうです。

それも、どこで戦死したのか記録もなく、最後に確認されたのが輸送船に乗船した時ということなので、連合軍の潜水艦に撃沈されたか、戦地に辿り着いたとしても、異国の地で戦死したのではないかとのことです。

ちなみに、軍隊の等級のなかで二等兵が最下級であり、民間から徴兵された兵士はみな二等兵から始まるのですが、士官学校などの軍人のエリートが威張っていて大変だったそうです。

父と母親

上の写真で父が手に持っているのは、ゴムを巻いて飛ぶ飛行機のオモチャです。懐かしいですね。。。

ちなみに、父の母(私の祖母)は、1992年に94才で天寿を全うしました。

ドーベルマン

このドーベルマン犬(名前はトム)は、阿佐ヶ谷の実家で飼われていました。

父の父親(私の祖父)は、良く犬を飼っていたそうで、阿佐ヶ谷の実家のあとの下高井戸の家でも、ドーベルマン犬を飼っていました。

父の話によると、父が大学を卒業後、サラリーマンの会社勤めの時代、夜遅く帰宅したときに鍵を忘れたので、塀をよじ登ったときに、ドーベルマンが、シャツが汚れてしまうくらい大喜びで父に抱きついてきてきたそうです。

ドーベルマン犬はとても聡明で、散歩中にリードを外してもずっと後を付いてきたそうです。

15才くらいでヤブ蚊に刺されたのが原因で死んでしまいました。

父(右から2人目)と学友

2. 昭和20年夏

父が疎開先の金光中学校に通っていた昭和20年の夏に、終戦を迎えました。

天皇の玉音放送は、皆で聴いたのを覚えているそうですが、ラジオの音が悪く、ほとんど聞き取れなかったと言っていました。

原爆については、岡山と広島は距離的に近い(160km)ので、原爆によって広島市街地が完全に破壊された惨状はすぐに伝わりました。

もちろん、それが原子爆弾ということは誰も知る由もなかったのですが、何か特別な爆弾が落とされて、甚大な被害が発生しているということは聞いたそうです。

金光は、岡山市街から西に30kmほど離れているのですが、父の話によると、岡山市街地もB-52爆撃機が連日のように爆弾を落としていたため、空襲のあった日は、東の空が赤く燃えているのが良く見えたそうです。

調べてみると、岡谷大空襲というのは、1945年6月29日の午前2時43分から午前4時7分にかけて、死者1737人、家屋12693戸の被害を出しています。

空襲後の岡山市街(出典: Wiki

父が親戚の軍医から聞いた話によると、岡山の医者たちが、広島に急遽応援のために向かったそうですが、放射能による被爆についても何も知らない状況だったようです。

3. 終戦後

父の話は、終戦後に移り、学生時代に苦労したいろいろな話を聞かせてくれました。

終戦の翌年、父は疎開先の金光から東京の実家に戻り、当時予科と本科から大学の4年制に移行した第一期生として大学に進学しました。


上の写真は、父も記憶がないそうですが、下の写真は、大学時代の野球部(正確には、トップボールという軟式と硬式の中間のような球技)に所属していたときのものです。


父がどれだかわかりません。。。


終戦後、財閥は解体され、祖父の勤務していた日本鉱業も、軍需関係の企業ということで、祖父も財界を追放されてしまいました。

陸軍を除隊した長男は、銀行に就職して、家族の大黒柱として全員(4人の兄弟と両親、そして祖母)を養ったということなので、大変な苦労をしたようです。

父は、大学に進学しましたが、学費はアルバイトで稼いで捻出するしかなく、経済学部のゼミに所属したので勉学も大変で、まったく遊んでいる暇はなかったそうです。

アルバイトは、友人の誘いで横浜のバター工場で肉体労働だったそうですが、体中バター(正確にはマーガリン)だらけになりながら、持ち込んだコッペパンにそのマーガリンを塗って食べたそうです。

アルバイトは平日午前8時30分から午後4時まで。日当は800円くらいだったそうです(当時の物価でラーメンが300円くらい)。

アルバイトが終わると、マーガリンだらけになった身体を風呂(といってもドラム缶に湯水を張った簡易なもの)に交替で入ったそうです。。。

父の学生時代の苦労話はまだまだ続きますが、取り敢えず記録としてはこの辺までにしておきましょう。。。

父は、高度成長期の典型的なサラリーマンだったので、現役時代は親子で話をする機会はほとんどなかった(そもそも単身赴任で家を留守にしていたし、土日もほとんど仕事で家にいなかった)のですが、現役を引退し、数年前に母が亡くなって独り身の生活になってからは、私にいろいろな昔話を話してくれるようになりました。

父にはいつまでも元気でいてもらいたいです。

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