『カトリックの信仰』について ~ なぜ人は神の信仰を必要とするのか

今年もクリスマスの季節がやってきました。

先日、娘の学校のクリスマスミサに出席して、一足早く年末のクリスマスの雰囲気を堪能してきました。

24日のクリスマスイブには、毎年恒例の教会ミサに家族で参列する予定です。


公の場で「宗教」と「政治」の話はタブーだと言われています。そのような話を好む人は他人から敬遠されるだけで、下手をするとケンカになってしまいます。

最近『カトリックの信仰』という本を読み始めました。

近代日本カトリシズムの指導者・岩下壮一が公教要理を詳説し、キリスト教の精髄を明かした戦前の大著、955ページの超長編です。



前半200ページの内容だけでもカトリックの公教要理(カテキズム)を理解するのに絶大な助けになりました。実に解り易く、現代にも十二分に通用する説得力に満ちています。

なぜ人は宗教を必要とするのか?なぜカトリックなのか?

そのような疑問に対して実に明解に示唆を与えてくれる名著です。

「宗教」の話題をブログに書くのは果たしてどうか。。と思いましたが、自分のカトリック信仰の整理も兼ねて、以下に書き記します。

1.教会のミサ

私はカトリック信者ではありません。もちろん洗礼も受けていません。

しかし、週末は時間が許す限り、家族と共に日曜日朝の教会のミサに出席しています。もうかれこれ10年以上そのような生活をしています。

10年以上も教会に行っていながら、ミサで使徒信条を唱えるときも、未だに間違えてしまう程です。

妻は幼児洗礼を受けカトリックの環境で育てられた環境だったので、娘たちも幼児洗礼を受けています。通っている学校もずっとミッション系スクールです。

そういうわけで、私自身もカトリック宗教の教えに従って毎日の生活をしているわけです。

私たちの通っている教会のミサは、子供も一緒のカトリック形式のミサで、毎週日曜日の朝8:30から始まります。

ミサの時間は1時間。

聖堂の入口に「聖書と典礼」という冊子が置いてあるので、それを持って席に着きます(席は自由)。「聖書と典礼」にはミサの日付が記してあり、それとは別に、年間第○○主日、と典礼歴が記してあります。

聖書と典礼

聖書と典礼の中身

「立ちましょう」という会祭の挨拶とともに、司祭(神父さん)が入堂して祭壇まで行く間、入祭りの歌(毎回変わります)を全員で歌います。歌詞集が席には常備しているので、歌詞を覚えていない人は、それを見ながら歌います。

その後は、司祭と参列者全員が、予め決まった順序に従って、さまざまな形で聖書の唱えをします。

ざっと流れを説明すると、

「第一朗読」「答唱詩編」「第二朗読」(信者による聖書の朗読)
「説教」(司祭の話)
「信仰宣言」(全員で使徒信条を唱える)
「感謝の典礼」(司祭がパンとぶどう酒をいただく)
「記念唱」「栄唱」(司祭と信者が唱える)
「主の祈り」(主の祈り、続いて信者同志が主の平和を交わす)
「聖体拝領」(信者が司祭から聖体をもらう)

という感じです。

ミサの様子(2017/12/24)

具体的なミサの流れはこちらのミサ式次第というサイトがわかりやすいので興味のある方はご覧ください。

ちなみに、教会の椅子には「ひざまずき台」という、ミサの途中でひざをつくための付属の台のようなものが設置されていますが、2015年の待降節から「新しい典礼の総則に基づく変更」にしたがってミサ中の動作が「立つ」「座る」の2つの動作のみに統一されたことで、「ひざまずき台」は使用されなくなりました。

使徒信条
「天地の創造主、全能の父である神を信じます。父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、
ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます」

私が毎回感動するのは2箇所あります。

1つは、「記念唱」というパートです。

司祭が「信仰の神秘」と大声で唱えると、次に全員が

「主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで」

と唱えるところです。毎回感動してしまいます。

記念唱

もう一つは、「記念唱」に続く「栄唱」というパートで、司祭が

「キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに。。。聖霊の交わりの中で、全能の神、父であるあなたに」

と先唱し、それに続いて

「すべての誉れと栄光は。。。世々に至るまで、アーメン」

と奉献文を全員で唱えるところです。特に先唱のところは、伝統的なヨーロッパのカトリック教会の雰囲気を彷彿とさせます(下の動画は赤ちゃんがカワイイ)。

栄唱

感謝の賛歌
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の神なる主。主の栄光は天地に満つ。天のいと高きところにホザンナ。
ほむべきかな、主の名によりて来たる者。天のいと高きところにホザンナ」

「ホザンナ」というのは、ヘブライ語で「救いたまえ」という意味です。ミサや斉唱ではよく出てくる言葉です。

感謝の典礼の途中で、侍者が手元の鐘を鳴らすのですが、このシーンはいつ体験しても印象的です。

主の祈り
「天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください」

この主の祈りのあとに、近くの信者同志で両手を合わせて「主の平和」と言って親睦の挨拶を交わします。

ミサの終盤には「聖体拝領」と呼ばれる、列に並び、司祭からご聖体(ホスチアという薄いお煎餅のようなもの)を手のひらに乗せてもらって食べる儀式があります。

信者でない人も、列に並べますが、ご聖体はいただけません。ので、頭の上に司祭の手を乗せてもらい、祝福を受ける形になります。

ミサを通して、司祭の手伝いをする侍者(じしゃ)という役割の人がいます。子供のミサでは、これを子供たち(小学生が中心)が担うのです。うちの娘たちもたびたび侍者をやりました。

侍者

また、聖書の一部を朗読する「第一朗読」「第二朗読」も、子供たちが担当しています。

演奏は通常は大人のオルガン奏者ですが、時には(教会を卒業?した)青年会の若者たちがフォークギターなどで演奏してくれるときもあって楽しいです。

司祭が「感謝の祭儀を終わります。行きましょう 主の平和のうちに」と閉祭のあいさつをして、皆で「神に感謝」と応えます。

このあと全員で閉祭の歌を歌ってミサは終了となります。

ミサが終わると、子供たちは日曜学校でキリスト教について学んだり、いろいろな催し物を企画して遊んだりする時間です。

教会に通っていると、バザーやボランティアなどいろいろな活動にも関わることが多くなるので、地域のコミュニティ活動に参加したり、知り合いも増えます。

こうして日曜日を過ごしていると、少なからず、カトリック信者出ない私も、キリスト教に影響されて生活をすることになります。

2.日本人にも宗教は必要か

もちろん「宗教」がなくても日常生活を送ることはできます。実際、私自身も、結婚してカトリック教会に通うようになる前は、生まれてからずっと、宗教には縁も関心もなく、いわゆる無神論者でした。

欧米の社会では、社会活動や文化の根底にキリスト教の思想が大きく影響しているものの、日本で生活している限り、宗教に向き合わなくても全く問題ないように思えます。

おそらく日本人の大多数がそのような意識ではないでしょうか。

CIAのザ・ワールド・ファクトブックに記された2012年の調査によると、日本の信者比率は、神道99%、仏教80%、キリスト教1%となっています。

日本の宗教の信者比率

教義や経典がなく、宗教団体もない神道が果たして宗教か?という議論はありますが、この調査結果は、日本は宗教多元主義の国家ということを意味しています。つまり、ほとんどの日本人は「自分は無宗教だ」と言っているに等しいのです。

また、仏教の信者が80%となっていますが、これは単に法事や先祖が仏教ということで、修行をしている人はごく少数なのと、仏教では人間が成仏して仏(=神)になれるという解釈が本質的に他の宗教とは異なります。

ではなぜ日本人にも宗教が必要なのか?

私は教会に10年以上通い、宗教と向き合っているうちに、以下のようなことを確信するようになりました。

1.人に最も肝要なものは「宗教」である
2.宗教とは「神に対する人の道」である
3.宗教が最も肝要な理由は
 3-1.宗教に依らなければ人の道を全うすることができない
 3-2.宗教に依らなければ真の幸福を得られない

これは、「カテキズム」と呼ばれる、キリスト教の教理をわかりやすく説明した解説書からそっくり引用したものです。カテキズムは問答形式をとる事が多いため「教理問答」「信仰問答」とも呼ばれています。

ここで言う「宗教」とは、日本人の大多数である「宗教多元主義」=「無宗教」とは明らかに異なる、特定の宗教、具体的には、キリスト教のカトリック教会のことを指しています。

人はみなそれぞれ社会の道徳や倫理というものを持っています。

儒教では、五常(仁、義、礼、智、信)という考え方があります。

また、人の常によるべき五つの道で五倫(君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信)という考え方もあり、上記の五常を含めて五倫五常と言われることもあります。

五常(仁、義、礼、智、信)のなかには、日本で最も大切にされている「和」がありません。「和」は儒教ではなく、神道で導入された思想です。

神道(国家神道)は、実は、明治時代に西洋のキリスト教原理に対抗するために作られたもので、「和を以って尊しとする」という思想が基になっています。

「怨みをつくらないこと」が神道の最重要課題です。これは西洋キリスト教の競争を否定するもので、すべてを「引き分け試合」に帰着させる思想です。

その思想の根底には、多神教、つまり、八百万の神々といわれるように、良い神も悪い神もみんな「祭る」ことで、なだめるというものです。

カトリックの信仰は、このような五倫五常や和の精神と決して相反するものではありません。

しかし、儒教や神道には「神に対する人の道」という考えがなく、カトリックでは、「神に対する人の道」こそが最も肝要なものであると説きます。

なぜ儒教の五倫五常や神道の和だけでは足りないのか?

現在の社会には様々な問題が噴出しています。驚くべき少年犯罪の増加、未成年の自殺者の急増、政治家の汚職、詐欺事件の増加、などなど。。。これらはなぜ解決しないのでしょうか?

私は、原因のひとつに、人間が「神を信じない」からだと思っています。

「宗教は信仰だ。信仰の自由である現代社会では、信じる信じないは個人の自由だ」

との意見があり、それは尤もなことだと思います。

しかし、同時に、これは宗教の考えとは異なる、人間至上主義的な考え方だとも思うのです。

繰り返しますが、儒教の五倫五常や神道の和の精神が悪いと言っているのではないのですが、儒教や神道の教えだけでは、人間がこの世のなかで最も万能のものであるという誤った解釈に結び付いてしまう危険があるような気がします。それは人が成仏して仏になれるという仏教についても同じです。

人間を超えた存在、畏怖の念を感じる存在を認めること、人間が本来持っている弱さや罪深さというものを認めること、これが宗教の本質でもあると思うのです。

3、神は存在するのか

私は教会に通うようになる以前は神の存在は信じていませんでした。

キリスト教で語られるイエスの奇跡や復活の物語、自然を超越した神の存在など、でっち上げで、理性的でも論理的でもないと考えていたからです。

宇宙の秩序は、物理法則ですべてが説明することができ、究極の物理方程式にこの世のすべてのパラメータを入力すれば、人間の行動も未来の出来事もすべて計算で算出できると信じていました。

人間はダーウィンの進化論に沿って、単細胞から進化して知能を持った生物に何百万年という気の遠くなる月日を経て進化したという考えでした。


しかし、それでは、この世に人間のような理知的な生物が出現する理由をどうやって説明できるのか?

これだけ科学技術が進歩しているにも関わらず、人口生命体の最も原始的な状態でさえ、実験室の環境ではなぜ再現できないのか?

そもそも人間のような知性と凶暴性を併せ持つ理屈ではない生物は、どうやって誕生したのか?

人間の欲求を5段階の階層で理論化した「マズローの欲求5段階説」という有名な理論があります。


人間の欲求は、低次の欲求が満たされると高次の段階へ上がっていくという説です。

低次の欲求を求めるために人々は争い、時には戦争をしたわけです。

しかし、人間には、この「マズローの欲求5段階説」とは全く無関係に同じ人間同士が殺し合うという、他の生き物にはない罪深い側面があります。

このように考えると、科学至上主義の唯物論が宇宙の秩序を形成する唯一の事象であると捕えることはいよいよ無理があるように思えます。

宗教の根源である、理性を超越した創造主である「神の存在」を信じるほうが、私には理に適っていると考えるようになりました。

宇宙の創造は、138億年前に起きた単なるビッグバンという偶然の物理現象の産物ではなく、全能者の神によって、神の己の光栄を発揮するために、無限の力で意図的に引き起こされた、「無」から「有」を生み出された事象であったのではないでしょうか。

132億年前の銀河(ハッブル望遠鏡)

ここでいう神の己の光栄とは、人間という被造物が、幸福を全うするという意味です。

「人間の現在の有り様は、創造主である神の理想であったあるべき姿から程遠い、堕落した不幸な状態である。その原因は、人間が犯した罪である。その不幸から救って下さるのが神のお造りになった救い主イエス・キリストである」

というカトリックの信仰が、最も肝要なことであると思えるようになったのです。

4、欧米の個人主義は正しいか

人間の幸福とは、前述の「マズローの欲求5段階説」の高次にある、自己実現の欲求を満たすものです。

自己実現という言葉からは、「意識高い系」などとマイナス面を連想するかもしれませんが、そもそもキリスト教の本質は「個人救済」であり「集団救済」ではありません。

儒教や大乗仏教の教えが浸透している日本社会では、「個人救済」よりも「集団救済」を良しとする傾向があると思います。

欧米の個人主義は、CEOの高額報酬など、日本では否定的に報道されてきました。

これは、儒教をベースとして戦前に流布された「教育勅語」(今は廃止)の影響が現代の日本社会にも大きく残っているものではないでしょうか。

以下「日本人の不幸の原因は中国から伝わる儒教・朱子学の思想にあった」というサイトからそのまま引用します。

「満員電車や休みなく働く過剰労働でもめげずに耐えて通勤するのは我慢の美徳のうえに成り立っているし、会社での上司のパワハラは目上のものを敬えという儒教・朱子学の思想がベースにありそう」

「子供の頃から日本では周りに合わせて空気を読むことを良しとされ、こうあるべきという思想に取りつかれているのも、場を乱すのを嫌う儒教・朱子学の思想だよ」

「教育の分野においては、欧米の個人主義が理想とする「自分の考えをはっきり言えるようになること」よりも、日本では「教師が絶対的存在で知識を得ること・普通でいること」を1番に考えることも、儒教・朱子学にルーツがあるといえるわ」

ただし、教育勅語には肯定的な評価もあることを見落としてはいけないと思います。

教育勅語には、日本の伝統的道徳観が込められており、一種の模範となるものがあって、それが現代の社会では「日本国民は素晴らしい」という評価にも繋がっていると思います。

例えば、ワールドカップサッカーでの試合が終わった後のゴミ拾い行動や、他人に親切にするという国民性は、その一例です。

その一方、神道の「和」を尊重するあまり、相撲の「ごっつぁん」試合に象徴されるような八百長、不正、そして危機管理に欠けた企業組織の横行といった、事なかれ主義の蔓延が社会問題化しているのも事実です。

現代の日本で起きている社会問題の多くは、西洋の「宗教の思想」を理解・咀嚼することなしに、西洋の資本主義経済を導入してしまった歪みに起因していると思います。

この辺の話は、ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の解釈で様々な議論が長年にわたり繰り広げられているほどの大論点です。

西洋の「宗教の思想」を理解するためには、「日本人のための宗教原論」(小室直樹著作)という本は、万人に非常にわかりやすく解説された素晴らしい本だと思います。



「日本人のための宗教原論」によると、日本の宗教は、儒教、仏教、キリスト教の戒律をすべて取り払って、「神との契約」ではなく「人間関係」に置き換えて取り込んだ、とあります。

私もこの考えには同意します。

この本は、プロテスタントは(カトリックと違って)「聖書」のみを教義として、「教会」の教義を持たないゆえに、前近代からの経済発展に成功し、現在の資本主義社会を確立したというロジックを明解に説明しています。

つまり、資本主義の成功は、キリスト教文明の産物ということです。

対して、イスラム教国の近代化の失敗は、イスラム教が、法律や社会倫理などをすべて宗教(経典)に由来するものとして、時代錯誤の壁を超えることができず、改造不可能なものにしてしまっているので、現代の資本主義社会には通用しないという点を指摘しています。

加えて、イスラム文化のキリスト文化に対する歴史的な優越感(アラビア文字、天文学や航海術など)に固執するあまり、キリスト文化を蔑んでいることも、宗教対立の要因になっていると指摘します。

また、創造の方法学(高根正昭著)という本では、欧米的な教育(子供に手本を示して模倣させることをせず、自分で創造させる)の優位性と併せて、比較例証法による宗教と資本主義精神の関係を分析し、プロテスタント精神こそが、近代資本主義社会を実現した要因であると立証しています。



日本は独特の国、諸外国は違うという主張を良く聞きます。

遠藤周作の小説「沈黙」でも日本では何故キリスト教が根付かないのか、それは「日本は沼なのだ。種をまいても根は張らないのだ」と幕府の井上筑後守が説くくだりが出てきます。

映画「沈黙」の井上筑後守

「真の宗教は時代や国によって変化のあるべきものではない」と、近代日本カトリシズムの指導者である岩下壮一氏はその著書「カトリックの信仰」で主張しています。

欧米の個人主義が正しいか、日本の文化もそれを採り入れるべきかどうか、議論が分かれるところなのでしょう。今の政府の教育方針も、国際的な競争力強化という観点から、欧米の個人主義の是非について立場が揺れているようにも見えます。

5、信仰を持つとは

カトリックの信仰を持って生きるということは、どういうことか。家族生活や仕事にはどのような影響があるのか。

前述のウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の解釈は以下のとおりです。

以下「キリスト教は資本主義と親和的なのか」というサイトから引用します。

「ヴェーバーは、労働とは、「神の定めたもうた生活の自己目的なのだ」と述べ、個人のなかに労働に対する意欲があるかどうかが、その人間が救済を予定されている証だと解釈した。救われている者は、ひたすら労働に打ち込むが、救われていない者は怠惰になるというのだ」

「さらにそこに、プロテスタンティズムの世俗内的禁欲の考え方が導入されると、享楽を追求することや、奢侈的な消費を行うことは否定される。ただし、財の獲得を倫理に反するものとしてとらえる伝統的な価値観も否定され、利潤の追求ということ自体は正当化される。それは、むしろ神の意志に沿うものとされたのだ」

「すると、神による救いを、天職の実践を通して実感している人間は、ひたすら働くとともに、節制し、禁欲的な生活態度をとる。そして、勤勉に働いた結果得られる利益については、それを個人の快楽を追求するための消費に回すのではなく、資本としてさらなる経済活動の拡大のために投資していく。それこそが、プロテスタンティズムの倫理にもとづく資本主義の精神の誕生だというのが、ヴェーバーの基本的な理解なのである」

米国に象徴される欧米のプロテスタンティズムの精神に基づく資本主義経済が、グローバル経済で圧倒的な強さを誇っているのは、正にこのようなキリスト教精神のおかげだと思います。

退屈な天国、楽しい地獄(ボッシュ)

では、カトリックとプロテスタントの信仰の違いが、この天職の実践についてどのような関係があるのか?

前述の「カトリックの信仰」は、プロテスタントの聖書解釈の盲点を鋭く批判しています。一般的に、プロテスタントは「聖書に立ち戻る」スローガンを掲げて伝統的な教会の権威を否定しています。

ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を解読するというサイトでは、

「プロテスタンティズムとカトリックを分かつ本質的な差異は、プロテスタンティズムが世俗内で義務を遂行することを、神より与えられし「召命」Berufと見なした点にある」

と解説しています。

「Berufはドイツ語で職業を意味する。それと同時に、そこには神から与えられた使命という意味も込められている。つまりプロテスタントにとっては、自分がいま生きている社会のうちで勤勉に働くことが神の意志に最もかなうことになる」

個人的にはこの天職という考え方は素晴らしいと思います。

一方、「カトリックの信仰」には、「職業に上下あり」(大学教授か車夫か)という記述があります。

「人格に上下があるように職業にも上下がある。個人的貢献の道徳的価値は、職業の上下など関係ない。しかし、人を離れた職業自身は、究極の目的(神の国の実現)に直接に貢献すればするほど高い」

私の解釈では、カトリックとプロテスタントの信仰の天職に関する意見の違いは、平たく言ってしまえば、「どんな仕事でも全身全霊で働く」(プロテスタント)に対して、「貢献度の高い仕事に全身全霊で働く」(カトリック)という違いがあるように思えます。

ちなみに、日本国内のキリスト教信者は、カトリックとプロテスタントでだいたい50:50と言われています。2006年のカトリック教会の統計では、主日のミサへの参加が12万人ということなので、1億2000万人の人口比で0.1%とごく僅かな少数であることは間違いありません(全世界ではカトリック20億人、プロテスタント3.5億人)。

これはネタですが、「カトリックとプロテスタントを簡単に見分ける一覧表が便利過ぎると話題に」というツイートが以前話題になりました。なかなか真髄を突いています(笑)


最後の「家計が苦しそうなのがカトリックで、余裕を感じるのがプロテスタント」という見分け方が面白いのですが、何となく、合っているような気がします。

私は、「タラントの例え」(マタイの福音書25章14〜30節)に語られる、「天賦の才能は用いるために与えられている」という教えが、キリスト教の天職に対するあるべき姿だと思います。

天賦の才能もノブレスオブリージュのひとつとして、「持てるものの義務」という考えです。

これは、並外れた才覚だけでなく、世界レベルで見れば極めて裕福な中流階級であるわれわれ日本人全員に該当するものだと思います。

と、最後は上から目線的な結論になってしまいましが、我が愚身を振り返ると、猛省することしきり。。。

宗教については、ブログなどに軽率に所感を書くこと自体が間違っているのかもしれません。

年末の休みを利用して、もう一度考え直してみようと思います。。。

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