世田谷市民大学の2026年後期が始まりました。
世田谷市民大学は、1981年に世田谷区が設立した、18歳以上の区内在住・在勤・在学の人なら誰でも参加できる区民のための学習の場です。
名称は大学ですが、大学の学位を取得することはできず、学割なども発行されません。
以下は2026年度の後期プログラムです。
主な特徴とカリキュラムは、曜日ごとに「政治」「社会」「経済」「人間」の4つのコースが用意されています。
それぞれ「ゼミナール」と「昼間講座」を中心に、土曜講座や公開講座なども交えて系統的に学びます。
講義は、世田谷市民健康・交流施設内4階の世田谷市民大学(東急田園都市線の池尻駅から徒歩8分)の講義室で開催されます。
現代社会の諸問題に対する確かなものの見方を養い、地域社会における市民自治の担い手を育てることを目指しています。
詳細については、世田谷区公式ホームページの世田谷市民大学案内をご覧ください。
2. スペイン・ポルトガルの政治 - 「特殊な国」の200年
私が妻と一緒に登録したのは、スペイン・ポルトガルの政治 -
「特殊な国」の200年という、月曜日2時限(11:00-12:20)の昼間講座です。
近い将来妻と一緒にスペインに移住を計画(正確には東京と2拠点生活)しているので、その準備の一環でもあります。
講師は関西学院大学の武藤 祥(むとう しょう)教授です。
武藤祥氏は、スペイン・ポルトガル政治史やヨーロッパ政治史、権威主義体制を専門とする、関西学院大学法学部の教授です。
学歴
2000年3月:立教大学法学部政治学科 卒業
2002年3月:東京大学大学院法学政治学研究科修士課程 修了
2008年3月:東京大学大学院法学政治学研究科博士課程 単位取得満期退学
学位:博士(法学)(東京大学)
立教大学や東海大学を経て、関西学院大学法学部で准教授を務めたのち教授に就任。日本大学やマドリード・コンプルテンセ大学などで客員研究員も歴任しました。
主な著作として『スペイン史入門』や『スペイン・ポルトガル史研究入門』『権威主義化する世界と憲法改正』などの共編著・共著があります。
イギリスやフランス、ドイツといった欧州大国の歴史と比較すると、研究の位置付けや注目度は低かったスペイン・ポルトガル(イベリア半島)の西洋史研究の講座です。
3. 第1回 - イベリア半島を見る視点 - 歴史的・地理的文脈
9月7日の開講初日は、ほぼ満席でした。
武藤教授がご登壇
以下は配布資料の1ページ目です。
以下はイベリア半島の地理的な概要です
地中海性気候で、昼夜や夏冬の寒暖の差が激しく、感想した気候です
言語は多様で、スペイン語といっても、カスティーリャ語とカタルーニャ語がメインで、北のバスク地方ではバスク語(系統やルーツなどがわかっていない言語)です。
地域主義は、マドリードとバルセロナのサッカーチームの激烈なライバル意識にも象徴されているとのこと。
10月5日の第4回目は、20世紀初頭(モロッコ問題、1910年革命)について
第1回のときは、私はトマトクリームのスパゲッティ、妻は博多明太子のスパゲッティを注文
宗教的にはスペイン・ポルトガルともにカトリックの国であり、また比較的信仰の篤い地域とされています。
かつては大土地所有権(ラティフンディオ)が主流で、地主が小作人に対して圧倒的に有利で、農民は不安定な地位に置かれていました。
かつては大土地所有権(ラティフンディオ)が主流で、地主が小作人に対して圧倒的に有利で、農民は不安定な地位に置かれていました。
恩顧庇護関係(クライエンテリズム)という、政治的・社会的に優位な立場の人間が、劣位にあるものに対し何らかの利益を提供し、その見返りとして支持を得る関係が、南欧政治を考える上で重要とのこと。
これは日本の絶対服従が前提の主従関係とは異なるところに特徴がありますね。
このような保守的な思想は、フランス革命(1789年から1799年までの10年間)がもたらした自由主義やリベラリズムに真っ向から対立するものでした。
9月14日の第2回目もほぼ満席
9月28日の第3回目は、立憲君主制とカシキスモについて
スペインでは保守党と自由党の2大政党の政権交代が続きますが、カシーケという地方有力者の投票操作による出来レースでした
日本人にはあまり馴染みのないイベリア半島の地理的・文化的特徴は、非常に興味深いものでした。
4. 第2回 - 前史~19世紀前半まで(ナポレオン戦争とスペイン独立戦争)
以下は配布資料の1ページ目です。
フランス革命とナポレオン戦争の時期、1808年にフランス軍はマドリードを占領します。
スペインの画家ゴヤの『1808年5月3日、マドリード』という有名な絵画は、そのときの情景を描いたものです。
ゴヤの『1808年5月3日、マドリード』
ナポレオンは兄のジョセフ・ボナパルドをスペインの王位(ホセ1世)につけたため、各地に自発的抵抗組織ができ、民衆的抵抗(ゲリラ: 非正規兵の小部隊によるかく乱行動)に繋がりました。
その後、ナポレオン軍はロシア遠征のためスペイン駐留軍を徹底させたため、ポルトガルに駐屯していたイギリス軍がスペイン領内に進軍して、ホセ1世は敗走、南の都市カディスで議会が開催されカディス憲法(立憲君主制、三権分立、内閣制、領主特権と教会特権を制限)が制定されました(1812年)。
一方、ポルトガルは、1807年に国王ジョアン6世がブラジルに逃れ、本国の政治は摂政政治に委ねられました。
軍の一部将校が自由主義者と組んでポルトで革命を宣言(1820年革命)。
憲法草案(1820年)、国民主権、三権分立、封建的諸特権の廃止などが制定されました。
ジョアン6世は帰国し、憲法遵守を近い、事実上の立憲王政が誕生しました。
その後は、スペイン・ポルトガルともいくつかの政乱時期や革命を経て、共和制へと推移しました。
なかなか難しい講義内容でしたが、スペイン・ポルトガルの歴史の重要な転換期について理解を深めることができました!
5. 第3回 - 19世紀後半の政治 - 立憲政治の確立
以下は配布資料の1ページ目です。
ポルトガルも刷新党と進歩党の出来レースで一緒
米西戦争に敗れてキューバ、フィリピンなどを失い、ポルトガルもブラジル植民地とアフリカの植民地を失う(バラ色地図事件)
5. 第4回 - 19世紀後半の政治 - 立憲政治の確立
以下は配布資料の1ページ目です。
ポルトガルは1910年革命で王政が崩壊、ヨーロッパでもフランス、スイスに次いで3番目の共和制となりました。
当時ポルトガルやスペインがイタリヤやフランスよりも世界の覇権を握った理由をChat GPTに聞いてみました。
Q:ヨーロッパ諸国でなぜスペインとポルトガルは突出して大きな影響力を持ち、植民地も広げることができたのですか。同じカトリックのイタリアなどと比べて何か決定的なメリットがあったのでしょうか。
A: はい。かなり明確な理由があります。
ただし、「カトリックだったから」という宗教上の理由だけではありません。むしろ決定的だったのは、地理・政治統合・航海技術・イスラム世界との対抗関係・国家による海洋進出への集中が、15世紀後半に偶然うまく重なったことです。
特に重要なのは、イタリアは当時すでに豊かな海洋国家だったのに、地中海という「既存の交易圏」に強く依存していたのに対し、ポルトガルとスペインは大西洋へ出るインセンティブが非常に強かった、という違いです。
1. 最大の違いは「大西洋に突き出していた」こと
イベリア半島はヨーロッパの南西端にあり、ポルトガルはほぼ大西洋に面しています。
特にポルトガルは、
リスボン → アフリカ西岸 → 喜望峰 → インド洋
という航路を開拓するのに非常に適した位置にありました。
実際、ポルトガルでは深海漁業などによって大西洋の風・潮流・海況についての知識が蓄積され、それを王権が航海技術、航海士の育成、海図作成などに結びつけました。OECDの歴史経済研究も、ポルトガルの海外進出の大きな優位性として、この地理的位置と海洋知識、王室による航海技術への支援を挙げています。
一方、イタリアの場合は、
ヴェネツィア → 東地中海 → エジプト・レバント → アジア
という既存の交易ネットワークがすでに巨大でした。
つまり、
イタリアは「既に儲かっている地中海交易」を持っていた。
ポルトガルは「地中海を迂回して新しい航路を探す」必要があった。
この差はかなり大きいです。
2. ポルトガルには「イスラム世界を迂回してインドへ行きたい」という強烈な動機があった
当時、アジアの香辛料などは、
インド洋
↓
アラブ商人
↓
紅海・ペルシア湾
↓
エジプト・レバント
↓
地中海
↓
ヴェネツィアなど
というルートでヨーロッパへ入っていました。
ポルトガルにとっては、
「アフリカを一周すれば、この中間業者を全部飛ばせる」
という非常に魅力的な構想だったわけです。
そのためポルトガルは、アフリカ西岸を少しずつ南下していき、1488年にバルトロメウ・ディアスが喜望峰を回り、1498年にはヴァスコ・ダ・ガマがインドへ到達します。
これは単なる「未知の世界を探検した」というより、
既存の世界貿易ルートそのものをショートカットする巨大なビジネス戦略
だったと考えると分かりやすいです。ポルトガル王室の海外帝国構想も、アフリカ沿岸を南下してインド洋へ到達することを中心としていました。
3. レコンキスタという「軍事・宗教・海外進出」の経験
もう一つ非常に重要です。
イベリア半島では、キリスト教諸国とイスラム勢力との戦争が何世紀にもわたって続いていました。
ポルトガルは13世紀半ばまでにレコンキスタをほぼ完了し、その後、軍事力と人口・資源を海外へ向ける余地が生まれました。
スペインも1492年にグラナダを陥落させ、レコンキスタを完了します。
すると、
「イスラム勢力との戦争」
↓
「キリスト教世界を拡大する」
↓
「海外のイスラム勢力・交易網に挑戦する」
という発想が自然につながりました。
スペイン王室が1492年にコロンブスの計画を支援した背景にも、アジアへの新航路を獲得する経済的目的とともに、キリスト教の拡大やイスラム勢力への対抗という要素がありました。
4. そして決定的なのが「国家が航海を事業として支援した」こと
ここはイタリアとの比較で非常に重要です。
ポルトガルの場合、
王室 → 航海技術 → 探検 → 拠点建設 → 貿易独占 → 軍事力
という国家プロジェクトになりました。
単なる民間商人の冒険ではありません。
ポルトガル王室は航海士を支援し、海図や航海情報を蓄積し、アフリカ沿岸に段階的に拠点を築いていきました。
スペインでも同じように、1492年のコロンブス航海を王室が支援しました。
つまり、
「探検家が偶然新大陸を発見した」
というより、
「国家が莫大な利益を期待してリスクの高い航海に投資した」
という面が非常に大きいのです。
5. さらに恐ろしいほど有利だったのが「トルデシリャス条約」
ここはスペイン・ポルトガルの突出した影響力を理解するうえで非常に重要です。
1494年、スペインとポルトガルはトルデシリャス条約を結びました。
なんと、ヨーロッパの二国が、
「まだヨーロッパ人が十分に知らない世界を、東西に分けよう」
という取り決めをしたのです。
境界線より東をポルトガル、主として西をスペインの勢力圏としました。
その結果、
ポルトガル → アフリカ、インド洋、東南アジア、ブラジル
スペイン → 中南米、フィリピンなど
という巨大な海外帝国が形成されます。
もちろん他国はこの条約に拘束されませんでした。しかし15~16世紀初頭という「最初の競争」の段階では、スペインとポルトガルが非常に大きな先行利益を獲得したことは確かです。
では、なぜ「同じカトリックのイタリア」は乗り遅れたのか?
ここが一番面白いところです。
実は、
「イタリア人に航海能力がなかった」
という説明は間違いです。
むしろ逆です。
コロンブス自身がジェノヴァ人ですし、ポルトガルの航海にもイタリア系の航海士・地理学者などが関わっています。
問題は国家構造と地理的インセンティブです。
当時のイタリアは現在の「イタリア共和国」ではありません。
例えば、
ヴェネツィア共和国
ジェノヴァ共和国
フィレンツェ共和国
教皇領
ミラノ公国
ナポリ王国
などに分裂していました。
そしてヴェネツィアやジェノヴァは、すでに地中海交易で莫大な利益を得ていました。
つまり、
ポルトガル
→「新しい航路を開拓しないと大きな利益を得られない」
ヴェネツィア
→「今の地中海交易だけで莫大に儲かっている」
という違いがあります。
実際、15世紀末以降、交易の中心が地中海から大西洋へ移動すると、旧来のイタリア海洋都市国家の相対的な優位性が低下していきました。
(Chat GPTおわり)
なるほど~!これで疑問がスッキリと解決しました!
ついでにアフリカ大陸の言語分布の地図
アフリカ大陸で唯一スペイン語を公用語としている国は、中西部(中部アフリカ)に位置する赤道ギニア共和国だけなんですね!
99. レストラン・アルトマーレ
講義が終わるとちょうどお昼時ということで、同じ建物の3階にあるレストラン・アルトマーレでランチを。
良心的な価格設定
サラダとスープも付いてきて、とても美味しくいただきました!
第2回のときは、私は博多明太子のスパゲッティ、妻はとろとろ玉子のオムライスでミグラスソースを注文











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