[幸せになる勇気] 『嫌われる勇気』続編で完結するアドラー心理学 ~ 人間のすべての喜びもまた「対人関係」である

『幸せになる勇気』は、アドラー心理学の入門書『嫌われる勇気』の続編です。


前著『嫌われる勇気』(2013年)は、フロイト、ユングと並び、「心理学の三大巨頭」と称されたアルフレッド・アドラーの思想を、対話形式で初心者にもわかりやすく解説したベスト&ロングセラー本です。


『幸せになる勇気』は、前著から3年後に発刊されました。


『自己啓発の源流「アドラー」の教えII』 という副題が付いており、本書のテーマは、「自立」と「愛」についてです。



空前のベストセラーだった『嫌われる勇気』は、完成度が非常に高かったので、続編にはあまり期待していなかったのですが、良い意味で完全に裏切られました。


[嫌われる勇気] アドラー心理学の驚くべき逆転の発想とは ~ 人間のすべての悩みは「対人関係」である


前編と同じく、青年と哲人の対話という物語形式を取っており、賞罰や競争原理を否定する背景から、共同体感覚、さらには「愛」の価値について、より深く突っ込んだ内容となっています。


『嫌われる勇気』と『幸せになる勇気』の2部作を併せて読むことで、アドラー心理学の全貌を理解することができます。


この2部作のスゴイところは、単なる自己啓発書の枠を超えて、ビジネスや教育、結婚といった幅広い分野においても、最も役立つ書籍と言っても過言ではないでしょう。


この本との偶然の出会いに心から感謝するとともに、もっと早く読む機会があったなら。。。と考えてしまいます。


前著『嫌われる勇気』のレビューと同じように、『幸せになる勇気』で語られるアドラー心理学の一体どこが、私自身の人生観を反映しているのか、具体的に書き下してみました。

1. 幸せになる勇気

『幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え II』は、岸見一郎と古賀史健の共著による、アルフレッド・アドラーの「アドラー心理学」を解説した書籍です。


前著『嫌われる勇気』の続編として、2016年2月にダイヤモンド社より出版されました。


『嫌われる勇気』は、「現在」の自分の姿は「過去」と無関係であり、人間のすべての悩みは対人関係、すなわち、「承認欲求」と「競争」という元凶を人生から取り除くことによって、「共同体感覚」という対人関係のなかで、誰でも幸せになれるという内容でした。


『幸せになる勇気』のエッセンスは、要約すると


「すべての喜びもまた、対人関係の喜びである」

「教育とは仕事ではなく、交友である」

「愛とは二人で成し遂げる課題である」


の3点に集約されます。


本著では、教育の現場を具体例に挙げて、教育における「信賞必罰」が、「承認欲求」と「競争」に繋がる弊害の仕組みと、「共同体」の必要性、仕事、交友、愛それぞれにおける対人関係についてわかりやすく解説されています。


私は、『嫌われる勇気』を読んだだけでアドラー心理学を理解した気になっていましたが、『幸せになる勇気』を読んで、さらに多くの新しい気付きがありました。


以下の太文字は本文から直接引用したもの、赤文字は私自身の考えです。

2. アドラー心理学と宗教の違い

物語は、青年が哲人のもとを3年ぶりに訪れるところから始まります。


青年は、哲人の説くアドラー心理学に感銘を受けて、中学校の教師になったのですが、アドラー心理学が教育の現場では如何に無力であるかに絶望し、アドラー心理学を完全否定するために哲人を訪れたのでした。


アドラー心理学は、果たして宗教なのか、哲学なのか、科学なのか、という議論から始まります。


宗教も哲学も科学も、出発点は同じである - 「わたしたちはどこから来たのか、どこにいるのか、どう生きればいいのか」


古代ギリシアにおいては、哲学と科学の区分はなかったというのは、Ph.Dという称号が、現在でもDoctor of Philisophyの略語に使われていることにも見受けられます。


技術の進歩に伴い、科学は、哲学と宗教から独立しましたが、哲学と宗教の相違点は、なんでしょうか?


哲学と宗教の最大の相違点は、「神の物語」の有無である


アドラー心理学は、哲学であり、したがって、「神」も「真理」もなく、「自らの無知を知っている」(ソクラテス)だけであって、永遠に生きる「態度」そのものである、ということのようです。


したがって、アドラー心理学で現在主張されている内容も、実は間違っているかもしれないし、いずれ修正されるべき内容なのかもしれません。


Amazonの書評に以下のような投稿がありました。一部引用します。


「非常に示唆に富んだ内容で、新たな発見があり、総合的にはとても良い内容だと思います。

しかしながら、レビュー欄などで手放しで絶賛されている人の余りの多さに少し恐怖を感じます。

本書の内容は、あくまで興味深い主張の一つではありますが、学問的に証明された理論や真理ではありません。


(中略)


褒めることで、実際にそこまでの悪影響があるのか、いくつのグループでデータを取り、そのうちどのくらいの割合でどんな影響が見られたかなどの、検証の部分が一切ありません。

いざ検証してみたら、多くの割合で褒めるメリットの方が大きかったという可能性もあり得ますし、悪い褒め方があるだけで、本質は褒める方法である、という結論だってあり得る訳です。

もしくは、褒めない方が良いケース、褒めた方が良いケースがあり、何かそこに条件があるのかも知れません。

本書の問題点は、そういった検証を一切することなく、或いはその有無や必要性を示すことなく、断定的に言い切ってしまっている点だと思います。


私は、ある主張を仮説として立てたなら、それを科学的な検証を通して、根拠を示して真偽を追求するのが学問であり、根拠なく、またはその必要なく言い切るのが宗教だと考えています。

そういう観点では、本書は宗教の範疇に近いのかなと私は思いました」


(引用おわり)


この投稿には、「62人のお客様がこれが役に立ったと考えています」とあります。


しかし、私はこの投稿者は、哲学と宗教を取り間違えていると思います。


数式による演繹法と、データ用いた帰納法を駆使して事象を証明するのが科学ですが、心理学には、そのような観測データもなければ数式もありません。


また、心理学や哲学を宗教とみなすのは、本著の冒頭の「アドラー心理学と宗教の違い」を理解できておらず、それに多くの読者が同意している事実も、アドラー心理学の難しさを象徴しているのではないでしょうか。


3. 教育とは「介入」ではなく「援助」

物語の青年は、明日にでも教育現場で実践可能な、具体的な話を聞きたいと迫りますが、哲人は、まず尊敬という意味について語ります。


尊敬とは、人間の姿をありのままに見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである


尊敬とは、その人が、その人らしく成長発展していけるよう、気づかうことである


一般的な「尊敬」とは、自分もそうありたいと憧れるような感情のことを指すと私も思っていましたが、アドラー心理学では、それは、尊敬ではなく、恐怖であり、従属であり、信仰であると、完全に否定します!


アドラー心理学では、あらゆる対人関係の土台は尊敬によって築かれると説き、学級の問題児だろうが、悪党だろうが、すべて尊敬の対象であるという驚きの主張です。


哲人は、教師となった青年に、生徒たちに「尊敬」を教えてほしいと諭します。


教育に限らず、あらゆる対人関係の第一歩は「尊敬」から始まる


青年は具体例を挙げて反論します。


徹底的に叱られ続けた生徒たちでさえ、のちに「あのとき厳しく指導してくださって、どうもありがとうございました」と感謝する、と。


哲人はこう諭します。


そのように感謝する彼らは、「いまの自分」を積極的に肯定しようとしているだけで、結果、過去のすべてがよい思い出として、「これで良かったのだ」と総括しているだけである。


自分を変えるとは、「それまでの自分」に見切りをつけ、「それまでの自分」を否定し、「死」を選ぶことに他ならない。


だから、人は変わろうとしないし、どんなに苦しくとも、「このままでいいんだ」と思いたい。


これは、「現在」は「過去」と無関係という『嫌われる勇気』で語られたテーマと同じですね。


本著では、さらに突っ込んで、


歴史とは、時代の権力者によって改竄され続ける巨大な物語である


と斬り捨てています。


あらゆる年表と歴史書は、時の権力者の正当性を証明するために編纂された、偽書である


ここまでラディカルな思想になると、ホントか?と疑いたくなってしまいますね。


しかし、私はこのアドラーの考え方に賛同します。


個人的には、伝記や著名人の自伝などにほとんど興味がないのも、まさにこの理由からです。


人は過去に起こった膨大な出来事のなかから、いまの「目的」に合致する出来事だけを選択し、意味付けをほどこし、自らの記憶としている。今の「目的」に反する出来事は消去する。


まさにその通り!


どうやら私はアドラー心理学とはウマが合うようです。


叱ってはいけない、ほめてもいけない


なぜなら、問題児たちは、確信犯として問題行動を起こしているからです。


どういうことでしょうか?


現代アドラー心理学では、人間の問題行動について、その背後に働く心理を5つの段階に分けて考えます。


第1段階 称賛の要求 -「ほめてもらうこと」

↓(うまくいかないと)

第2段階 注目喚起 -「ほめられなくてもいいから、とにかく目立ってやろう」

↓(うまくいかないと)

第3段階 権力争い -「誰にも従わず、挑発を繰り返し、戦いを挑む」

↓(うまくいかないと)

第4段階 復讐 -「わたしを認めてくれなかった人に対して、相手が嫌がることを繰り返す」

↓(うまくいかないと)

第5段階 無能の証明 -「わたしに構わないでくれ」「自分がいかに無能かを証明しようとする」


喧嘩を例にとると、喧嘩を止めさせるために必要なことは、喧嘩の原因を追究することではなく、「これからどうするか」を考えることです。


暴力とは、時間も労力もかけずに自分の要求を押し通す、どこまでもコストの低い、安直なコミュニケーション手段である


ひと昔前には当たり前だった「体罰」をきっぱりと否定します。


いや、ひと昔前ではないですね。今でもスポーツの世界などでは、この「体罰」が横行しているのは、ニュースを見ていると良くわかります。


ではなぜ教師や指導者たちが、こうも当たり前のように「体罰」や「叱り」に固執してしまうのか?


それは、教育者が、生徒たちに自立されてしまい、教育者と対等な立場になってしまうと、教育者としての権威が崩れ去ってしまうことを恐れるからです。


ほかにも生徒たちが自立してしまうと困ることがあります。


それは、自立した生徒たちが失敗して、特に他人に迷惑をかけたとき、教育者がその責任を問われるからです。


生徒たちの自立を阻み、支配下に置いておけば、無難で問題を起こさないような道ばかりを歩かせることができ、自らの保身に繋がるからです。


「ほめて伸ばす」を否定せよ


褒めることは、能力のある人が、能力のない人に下す評価であり、その目的は「操作」である、というのは、『嫌われる勇気』でも強調されていたポイントです。


では、「褒章」を肯定すると何が起きてしまうのか?


褒章が勧められると、その共同体は、褒章をめざした競争原理に支配されてしまい、「他者はすべて敵なのだ」というライフスタイルに陥ってしまうというのが、アドラーの主張です。


ライバルと競争してはいけない


これもかなり過激なメッセージですが、アドラー心理学では、ライバル同士の競争をきっぱりと否定します。


アドラーは、真の民主主義である共同体は、「競争主義」ではなく、「協力原理」に基づいて運営されるべきと説いています。


教育とは、「介入」ではなく「援助」であるという考え方は、組織における部下のマネジメントにも同じことが言えるでしょう。


私はこれまで、松下幸之助の「人を育てる心得」や、ダニエル・ゴールマンの「EQリーダーシップ」(2002年)などを通して、信賞必罰はマネジメントには必須のものであると学んできました。


以下は、松下幸之助の経営塾からの抜粋です。


古来、何ごとによらず信賞必罰ということがきわめて大切とされており、功績あればこれを賞し、過ちあればこれを罰する。その信賞必罰が適切に行なわれてはじめて、集団の規律も保たれ、人びとも励むようになる。

いいことをしてもほめられず、よくないことをしても罰せられないとなったら、人間は勝手気ままにしたい放題をして、規律も秩序もメチャメチャになってしまうだろう。


このような筋金入りの信賞必罰だけでなく、ダニエル・ゴールマンの「EQリーダーシップ」で提案されている数々のリーダーシップスタイルにも、「褒める、叱る」という要素は盛り込まれていました。


部下を褒めることに関しても、日本人は部下を叱ることばかりで、もっと褒めるべきだという意見も多く、実際、私自身は、部下を積極的に褒めることを意識した時期もありました。


しかし、アドラー心理学に照らし合わせると、私のそのようなマネジメントは、部下の育成につながるどころか、むしろ弊害ということになります。


一方、我が身を振り返ると、全身全霊で仕事に取り組むときは、上司や先輩の期待に応えるという感覚は皆無に近く、ただひたすら自分自身の規範に照らし合わせるだけでした。


上司に叱られたことは無数にありますが、そうやって育ててもらったという感覚は皆無ですし、そのような恩義も一切感じたことがありません。


皮肉なことに、私は自分自身が望まない部下のマネジメント方法について、あれこれ悩んでいたように思います。


4. 教育とは「仕事」ではなく「交友」

人生のタスク(ひとりの個人が社会で生きていくにあたって直面せざるを得ない課題)には、「仕事」「交友」「愛」の3つがあります。


学校教育や家庭教育は、子供たちと「仕事」として向き合うのではなく、「交友」の関係を築かなければなりません。


「すべての悩みは対人関係の悩みである」という言葉の背後には、「すべての喜びもまた、対人関係の喜びである」という幸福の定義が隠されている


『嫌われる勇気』でも紹介された、「信用」(相手のことを条件付きで信じる)
と「信頼」(他者を信じるにあたっていっさいの条件を付けない)の違いについて。


仕事の関係とは「信用」の関係であり、交友の関係とは「信頼」の関係である


アドラーにとっては、「仕事」というものは、悪でも善でもなく、地球という厳しい自然環境のなかで「生存」するために必須のものであり、仕事を成立させるための戦略として他者とのつながり(=信用)が生み出されたのです。


この考え方は、プロテスタンティズムの労働という概念、すなわち、キリスト教の精神と合致し、資本蓄積を可能にする労働観とは、本質的に異なる視点に立っていると思います。


というのも、アドラー心理学では、「仕事」や「職業」というトピックは、対人関係の文脈において深く述べられているのですが、その「対価」については、ほとんど記述がありません。。。


話を元に戻します。


「交友」について、哲人が青年に対して「あなたは親友と呼べる人がいますか」と問いかけます。


ここでのやりとりは、読んでいた私も椅子からずり落ちそうになるほどの衝撃でした。


以下引用します。


青年「先生はほんとうの親友をお持ちですか?」

哲人「もちろん、わたしも幾人もの親友を持っています。「素直になれる相手」や「たとえ彼が一度や二度の不義理を働いても、それだけを理由に彼との関係を断とうとは思わない相手」を。

青年「ほほう、どんな人間です?学友ですか?哲学仲間、アドラーの研究仲間ですか?」

哲人「たとえば、あなたです」

青年「な、なんですって!?」


(引用おわり)


人を信じるということ、無条件の信頼を寄せること、それは、付き合いの長さや深さとは全く関係のないことなのですね。


あなたが私を信じようと信じまいと、私はあなたを信じる、信じ続ける、それが「無条件」の意味である


アドラー心理学については、私は少なからず理解できていたと勝手に思い込んでいたのですが、このやりとりにビックリしてしまう程度では、まだまだですね。。。


5. 愛とは二人で成し遂げる課題

前述の人生の3つのタスク「仕事」「交友」「愛」のうち、最後の「愛」に本著のすべての議論は集約されます。


この「愛」の章の内容だけで、世間の恋愛マニュアルや、婚活マニュアルなど一切不要になると思えるほどです。


これまでのアドラー心理学の要旨は、自分を愛すること、それがすなわち他人を愛することである、でした。


「愛」とは、利己的に「私の幸せ」を求めるのではなく、利他的に「あなたの幸せ」を願うのでもなく、不可分なる「わたしたちの幸せを築き上げること」である


幸福なる生を手に入れるために、「わたし」は消えてなくなるべきである


自立とは、「自己中心性からの脱却」である


たったふたりから始まった「わたしたち」は、やがて共同体全体に、そして人類全体にまでその範囲を広げていく


。。。どのセリフも果てしなく深淵ですが、非常に抽象的ですね。わかったようなわからないような。。。


しかし、以下のセリフはまたまた衝撃的・刺激的なものです。


「運命的な出会い」がないので結婚相手がいないというのは、「すべての候補者を排除するため」の言い訳である


そして、畳み掛けるようにこう断言します。


われわれは、いかなる人をも愛することができる。そのへんを歩いている、どこの誰とも知らない女性をつかまえ、その女性を愛し、結婚することができる。私がそれを決意するならば


こんな恋愛観、結婚観は、ほかのどこにも見当たらないでしょう。


もちろん、運命の出会いという話はあるでしょうが、それは、予め定められた運命だったのではなく、「運命だと信じること」を決意しただけのことである、と。


世間の既婚者が独身時代にこのアドラー心理学を知って共感していたら、ひょっとして結婚相手が変わっていたのではないかと思うほどのインパクトがありますね。。。


アドラー心理学の結婚観がもっと浸透したら、日本の人口減少や出生率の低下といった問題も解決されるかもしれませんね(笑)


このようなアドラーの「愛」の解釈は、自分自身の結婚生活を振り返ってみても、私には非常にしっくりと腑に落ちるものでした。


本著はこうして、結婚とは、幸せになる勇気である、と締めくくられます。


もちろん、現代社会では、結婚が幸せになるためのすべてではありません。


生涯独身を貫くという生き方もあるでしょう。


本著では、アドラーが生きた時代背景を反映して、男女が結婚すること、結婚して子供を(少なくとも2人)もうけること、などを前提に書かれているなど、必ずしも現代にそぐわない点も散見されます。


それでも、このアドラー心理学が時代を超えて幅広く適用するのは、間違いないと思います。

アドラー心理学に賛成するか、反対するかはもちろん個人の自由ですが、個人的にはこれほど自分の信条にフィットした哲学思想があったとは、とにかく驚きです。


コメント