[嫌われる勇気] アドラー心理学の驚くべき逆転の発想とは ~ 人間のすべての悩みは「対人関係」である

『嫌われる勇気』というアドラー心理学の入門書を読みました。


フロイト、ユングと並び、「心理学の三大巨頭」と称されたアルフレッド・アドラーの思想を、対話形式で初心者にもわかりやすく解説したベスト&ロングセラー本です。



年間ベストセラー(ビジネス書)では、史上初となる5年連続トップ10入りを果たし、200万部を突破しているので、ご存じの方も多いかと思います。


アドラー心理学については何も知らなかったのですが、幸福に生きるための処方箋としての本書は、単なる自己啓発本を超えた、まさに私自身が信じてきた人生観をバイブルにしたような内容でした。


これは偶然なのか、必然なのか。。。本当に驚きました。


アドラー心理学の一体どこが、私自身の人生観を反映しているのか、具体的に書き下してみました。

1. 嫌われる勇気

『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』は、岸見一郎と古賀史健の共著による、アルフレッド・アドラーの「アドラー心理学」を解説した書籍です。


2013年12月13日にダイヤモンド社より出版されました(以上Wikiより)。


岸見一郎は、1956年生まれの哲学者、古賀史健はフリーランスライター、この二人の共著です。


岸見一郎氏(左)と古賀健史氏(ダイヤモンドより引用)


文章の構成は、哲人と青年による対話篇形式となっており、心理学の本にしては非常に読み進めやすくなっています。


『嫌われる勇気』という本のタイトルは、注目を集めるための「釣り」であって、別に「人に嫌われることを恐れないで生きていこう」みたいな内容ではありません。


本書のエッセンスは、要約すると


「すべての悩みは、対人関係の悩みである」

「人は今この瞬間から変われるし、幸福になることができる」

「問題は能力ではなく、勇気なのだ」


の3点に集約されると思います。


アドラー心理学では、他人に認めてもらいたいという「承認欲求」を完全に否定し、他人の評価に依存する生き方からの脱却を勧めています。


では、他人が自分をどう評価するかを気にすることなく、身勝手に振る舞う人生が正しいのかというと、決してそうではなく、人はみな「共同体への貢献」を果たすべきという、壮大な理想を掲げます。


以下の太文字は本文から直接引用したもの、赤文字は私自身の考えです。

2. 「現在」は「過去」と無関係

いきなり因果関係を否定するようなテーマですが、アドラー心理学では、現在の私の状態(結果)は、過去の出来事(原因)によって規定されない、という常識を覆すような考え方をします。


アドラー心理学では、過去のトラウマを完全に否定します。


心に負った傷(トラウマ)が、現在の不幸を引き起こしているのではなく、現在の不幸な状況のほうが(何らかの理由で)都合が良いから、その原因を過去のトラウマのせいに見出しているだけという、逆転の発想です。


現在の不幸を、過去のトラウマのせいにする例は事欠きません。


虐待を受けたから引っ込み思案になった、一流大学に行けなかったから出世できなかった、親友に裏切られたから人間を信用できなくなった、などなど。。。


しかし、良く考えると、虐待を受けた経験を持った人でも、逆境をはねのけて社交的な人や、一流大学出でなくても出世する人、親友に裏切られても人間を信用できる人もたくさんいます。


自分の弱点の原因を、過去の出来事に起因させるのは、不可抗力である外的環境のせいにして、己に甘えているだけなのです。


「オレは良い上司に恵まれなかったので、出世できなかった」


というのは、裏を返せば、「もし良い上司に巡り合えていたら、自分は出世するだけの能力を持っていたんだ」という甘えです。


そして、出世してより大きな責任を背負うより、現状の低い役職のままの状態を(無意識のうちに)自ら望んでいるわけです。


あなたの不幸はあなた自身が選んだもの


もうこれだけで、アドラー心理学に対して拒否反応を起こす人も多いでしょう。


実際、アドラー心理学に公然を異を唱える意見も多いようです。


一方、アドラーは


幸せになる勇気さえあれば、能力や環境に関係なく、誰でもライフスタイルを変えることができる


と説きます。


「人は変われる」


これは、私にとっては大きな気付きでした。


というのも、私はこれまで、「人間の性格や考えは、40歳くらいになると凝り固まって、いくら周囲が諭したり助言したりしても変わることはない」と信じていたからです。


頑固で偏屈な性格は、死ぬまで変わらない。


そう固く信じていました。


しかし、アドラー心理学を理解すると、その考え方は間違っていたことに気付きました。


ただし、「人は変われる」というのには前提があり、「他人のアドバイス」や「外的環境」ではなく、自分自身がライフスタイルを変える勇気をもって自ら変わることが、唯一の方法ということです。

3. 人間のすべての悩みは「対人関係」である

これもまた衝撃的なテーマですね。


自分を嫌いになってしまう原因は、自分自身で「自分を好きにならないでおこう」と決心しているから


そうすることで、うまくいかない人生を納得させることができるし、前に踏み出して挑戦したにも関わらず失敗してしまうリスクを回避しているわけです。


特に、「他者との関係で傷付かないで済む」というのが、最大の目的となります。


そして、アドラーは、「人間の悩みはすべての対人関係の悩みである」と断言しています。



「自分は他人よりXXXである」という劣等感は、客観的な事実ではなく、主観的な解釈ということです。


主観的な解釈なので、勘違いや間違っていることもあり、それが故に、主観的な解釈は変更できる(=劣等感から解放される)ことでもあります。


劣等感それ自体は悪いものではありませんが、そこから「どうせ自分なんて」と、自らの劣等感をある種の言い訳に使い始めた状態は、「劣等コンプレックス」と呼ばれる、望ましくない状態です。


それとは反対に、劣等感をバネに、現在の状態から、自分が理想と考える状態を追求することを「優越性の追求」と呼んで、人間は本来備えている普遍的なものと捉えます。


「劣等コンプレックス」と似た性質のもので「優越コンプレックス」というものがあります。


「優越コンプレックス」とは、自分に自信がない(劣等感を抱いている)ために、自分が権力者と懇意であることをことさらにアピールしたり、経歴詐称や過度なブランド信仰など、「わたし」と権威を結び付けることで、あたかも「わたし」が優れているかのように見せかけている偽りの劣等感です。


これは良くある話です。


事あるごとに「私はあの企業の社長と知り合いだ」と過度に誇張する人、著名人とのツーショット写真を額に入れてリビングに堂々と飾っている人、などなど。


Facebookでも、有名人や政財界のトップに立った人に対して、馴れ馴れしく「ああ〇〇さんはついに社長になったか」とか、「今日はあの〇〇さんと食事を一緒にした」などという投稿やコメントを見かけますが、あれも「優越コンプレックス」ですね。


4. 人生は他者との競争ではない

これは比較的受け入れやすい主張ではないでしょうか。


しかし、誰しも多かれ少なかれ、他者と自分を引き比べてしまう傾向があるのは間違いないでしょう。


アイツの給料はいくらで自分よりも多い少ない、アイツは出世が早いだの遅いだの、事あるごとに他者と自分を比べてしまうのが、人のサガのようにも思えます。


「他者との比較ではなく、理想の自分との比較から前に進もうとする」人生にこそ価値がある。


世俗の競争とは無縁の人生を送る、競争から降りる、ライバルを作らない、というのは「人生の負けを認めた」とも捉えられかねません。


対人関係の軸に「競争」があると、人は対人関係の悩みから逃れられず、不幸から逃れることはできない。



幸いなことに、私は子供のときから、他人からどう思われるか無関心なところがあり、これまでの人生で他者との競争を生き抜いてきたという自覚がありません。


なので、社会人になって、周囲の人々が「アイツに負けるわけにはいかない」という感情が非常に強いことに気付いたときに、大きな違和感を感じました。


30代のころ、マネジメントの役職に抜擢されて昇進したときに、「オマエのポジションは俺のほうが適任なのに、なぜオマエが選ばれたんだ」と誹謗中傷されたことがあります(その当人は、出世競争に敗れたと、自ら他部署へ異動してしまいましたが)。


出世競争なんてまるで意識していなかったので、そのときは非常に驚いて、そんな考え方もあるんだと開眼させられた思いでした。


また、今でも、話し相手が競争の意識を持っていることを強く感じる瞬間があります。


私は、相手が目上の人だろうが年下だろうが、どんな相手に対しても基本的に腰の低い接し方をするのですが、相手によっては、私の腰の低さを認識した途端、上から目線で態度が変わることが往々にしてあります。


例えば、妙に馴れ馴れしい言葉使いになったり、配慮に欠ける態度を示したり、いわゆるマウンティングという行動に出てくるわけです。


(出典:いろいろフォト


こちらがへり下ればへり下るほど、相手はいよいよ付け上がるというヤツです。


もちろん、そのようなマウンティングの行動に出ない人もいます。


私は、その相手の出方の変化を見ることで、付き合うべき相手かどうかの判断の拠り所にしています。


アドラー心理学では、「怒り」のような感情も、コントロールできないものではなく、相手に対する権力争いで優位に立とうとする目的があると指摘します。


相手の言動によって本気で腹が立ったときは、相手が「権力争い」を挑んできている


「権力争い」に応じる必要はなく、腹を立てる必要もない。


相手の言動に腹を立てる、ムカッとする、というのは誰しも日常的に経験しますね。


私はそれほど怒りっぽいわけではないと思いますが、相手が「権力争いを挑んできている」から「応じる必要はなく、腹を立てる必要もない」という理由で、何を言われても腹を立てずに耐え忍ぶというのは、至難の技です。


しかし、怒りという感情は、天にツバするのと同じく、結局自分に跳ね返ってくることが往々にして多く、双方にとってロクなことにならないのも厳然たる事実です。


「怒りは身の毒、腹が立ったら一日置け」とは、作家の童門冬二さんの言葉です。


言うは易く行うは難し、ですが、私は肝に銘じて、なるべく日常生活でストレスなく腹を立てないようにしようと思います。


しかし、もし、売られた喧嘩は買って、言い争いを制した場合には次に何が起こるか?


争いに敗れた相手は、次の段階、「復讐の段階」に入る


相手は別の場所で、報復行為に出る


対人関係が、復讐の段階に入ってしまうと、解決は不可能、したがって、権力争いを挑まれたときには、ぜったいに乗ってはいけない


これも私が日ごろ心構えている点と合致します。


若いときは、相手を理論で論破することに躍起になっていた時期がありました。


しかし、やがて、そのような言い争いをして、たとえ相手を論破したところで、何の役にも立たないどころか、弊害のほうがはるかに大きいことに気付いたのです。


アドラー心理学と同じで、相手は納得するどころか、逆恨みで何をしてくるかわかりません。


さらに、「権力争い」のための言い争いは、当人たちにとっては真剣であっても、傍から見ると、双方の微妙な主張を言い争う姿は、どちらが正しいかという点より、喧嘩している双方とも単なるアホにしか見えないということに気付いたからです。


Facebookのグループ投稿などでは、些細なことにプライドを賭けて言い争っている姿は良く見かけますが、双方ともアホにしか見えませんよね。


そのことに気付いて以来、「権力争い」のための言い争いには一切乗らないことにしています。


「わたしは正しい」⇒「相手は間違っている」⇒「権力争い」


わたしは正しいと思ったら、他の人がどんな意見であれ、そこで自己完結すべき


(自分で言うのも何ですが)私は、何をするにも、徹底的に突き詰めないと気が済まないタイプです。


しかし、そこには、ライバルに勝つという意識はなく、常に競争相手は自分自身、つまり、モチベーションは、自分が理想とする姿と現実の自分の不甲斐ない姿のギャップなのです。


まさに、「理想の自分との比較から前に進もうとする」スタイルですね。


その意味では、私はこれまで他者との競争とは無縁の、幸せな人生を歩んできたのかもしれません。


5. 承認欲求を否定する

「承認欲求」とは、単に社会集団に所属するだけでなく、所属する集団の中で高く評価されたい、自分の能力を認められたい、という欲求です。


マズローの欲求5段階の第4段階です。


ferretより引用)


SNSでたくさんの「いいね」を求めるのは、他人に注目されたり、賞賛されたりすることを求める「承認欲求」ですね。


アドラー心理学では、この承認欲求を完全に否定しています。


他人の期待を満たすために生きてはいけない


これを「課題の分離」と呼び、他人の期待は、他人の課題であり、自分の課題とは分離して対処すべきと説きます。


これもドラスティックな考えですね。


一般的には、他人の期待に応えるために頑張るという側面を持っています。


「期待しているよ」「ハイ頑張ります」のような会話は、ごく自然に交わされますよね。


他人の期待を満たすために生きない、ということは、すなわち、自分の欲望だけを考えて生きる、他人のことを考えないという、自分中心的な考え方と解釈されがちです。


他者の課題には介入せず、自分の課題には誰一人として介入させない


「嫌われる勇気」という本書のタイトルは、このテーマから来ているのでしょう。


しかし、誰にも嫌われずに、皆に好かれるような態度の人生とは一体なんでしょうか?


それは、ポピュリズムに陥った政治家と同様、嘘をつき続け、できないことまでできると約束をし、取れない責任まで引き受けてしまうことになります。


他者の視線を気にして、誰からも嫌われたくない人生では、非常に不自由な生き方になってしまう


これでは、人生は不幸にしかなりません。


自由とは、他者から嫌われることである


アドラー心理学では、他者から嫌われる勇気が大切と説いています。


もちろん、他者から嫌われるような自分勝手なことを積極的にやれという意味ではなく、自分が正しいと信じることは、他者がどう思おうと関係なく推進すべきという意味です。


前述したとおり、私は他人に無関心なところがあり、「人は人、自分は自分」と信じて生きてきたので、他人の期待に応えるために頑張ったことはほとんどありません。


なので、必然的に、他人に注目されたり、賞賛されたりすることを求める「承認欲求」もあまり求めたことがありません。


同じ理由から、(親を例外として)特定の誰かを恩人と感じたこともほとんどなく、恩知らずだとか、自己中心的だとか、冷たい性格だと非難されたことは山ほどあります。


しかし、他者から嫌われることを苦に感じることがないせいか、自分で信じたことは誰が何と言おうと、非難を浴びようと、馬耳東風でした。


逆に、他人に対して、間違っていると思っても「あなたの考えはおかしいからこうしたらどう」とか、「オマエのこの考え方は間違っている」というような指摘をしたり、余計な世話を焼いたりすることもありません。


あらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと、あるいは自分の課題に土足で踏み込まれることによって引き起こされる


私自身はあまり社交上手ではないと思いますが、他人と対人関係でトラブルになることは少なかったのは、他者の課題に土足で踏み込むようなことがなかったからではと思います。


6. 対人関係のゴールは「共同体感覚」

人との付き合いの究極の目的はなんでしょうか?


共同体感覚=他者を仲間だとみなし、そこに「自分の居場所がある」と感じられること


共同体とは、家庭や学校、職場や地域社会だけでなく、国家や人類、動植物や無生物まで含まれる


この共同体というのは、アドラー心理学でも難解な概念のようです。


しかし、私にはピンときました。


例えば、このブログが良い例です。


「より大きな共同体の声を聴け」という原則


人は、「わたしは共同体にとって有益なのだ」と思えたときにこそ、自らの価値を実感できる。


不特定多数に公開されているブログは、アクセスしてきた個人との関係はありません(メッセージやコメントをやり取りする場合は別ですが)。


にもかかわらず、私は、ブログを通して、大きな社会と繋がっている実感を持ち、少なからずアクセスがあるということで、「私の投稿している記事は、共同体にとって有益なのだ」と思えるのです。


本当にブログの記事内容が有益かどうかは、関係ありません。


ひょっとしたら、私の雑記ブログは、ほとんどの人にとって何ら役に立たないものかもしれません。


他者から「よい」と評価されるのではなく、自らの主観によって、「わたしは他者に貢献できている」と思えることで初めて、自らの価値を実感することができる。


もちろん、他者から「よいブログ記事」と評価されたり、アクセス数が伸びれば嬉しいですが(笑)。


ブログ発信という行為そのものが、「わたしは他者に貢献できている」と思えるので、自らの価値を実感することができるのです。


さらに、「共同体とは、国家や人類、動植物や無生物まで含まれる」とは、人間が生きていくうえで、自然との共生は最も大切であるという意味ではないでしょうか。


ただし、対人関係に自然が一体どのように関わってくるのか、ちょっとイメージしづらいですね。


学校や会社、地域コニュニティといった共同体は、あくまで人為的に作られた、ある共通目的を達成するための共同体に過ぎません。


しかし、アドラー心理学の対人関係の究極の形態は、例えば、ブラジルのアマゾンで1匹の蝶が羽ばたくと、結果的にはテキサスで竜巻を引き起こすといったバタフライ効果と似たように、人為的に作られた共同体を超えて、繋がりのある対人関係のことを指しているのではないでしょうか。

7. 人生に意味はない

では人生の意味とは何でしょうか?


「一般的な人生の意味はない」


というのが、アドラー心理学の答えです。


これは、以前のブログ記事にも書きましたが、人間には自由意思があるかどうかという議論に深く関連しています。


【ホモ・デウス 下: テクノロジーとサピエンスの未来】果たして人に自由意思はあるのか??

もし仮に

「人間の情動や欲望はただの生化学的なアルゴリズムであり、人間の意志がとは無関係に、人生を決めるのはアルゴリズムで、人生はデータ処理に過ぎない」

のであれば、

志望大学も、職業も、就職先も、結婚相手も、人生すべてが予め決まっており、そこに人間の自由な選択というのは幻想であるという考え方です。

もし、自分の性格や嗜好に合った理想的な選択を行いたいのであれば、自分自身を誰よりも客観的に知っているアルゴリズムに聞いて、その答えのままに選択するのが最良の選択となるのです。

現在は科学者の間でも、「運命派」「自由意志派」そして「限定的な自由意志派」に意見が分かれているそうです(【モーガン】 「運命か? 自由意志か?」まとめ)。




そして、アドラーはこう付け加えています。

「人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ」


さらに


「他者に貢献するという導きの星さえ見失わなければ、迷うことはない」


というメッセージで本書は締めくくられます。


アドラー心理学の全体を通して、個人的に最も感銘を受けたのは、他者の視線を気にしない、他者と競争しない、他者からの承認欲求を求めない、他者の課題に介入しない、といういう徹底した一人称の考え方です。


つまり、自分の幸せ(だけ)を追求すれば、結果的に、共同体に有益となり、他者に貢献することに繋がる、と解釈できます。


これは、アダム・スミスの国富論で有名な「神の見えざる手」の考え方である、(各人が)自分の利益だけを追求することが、世の中にとっても良いことの促進につながる、に酷似していませんか?


アドラー心理学は良く自己中心と誤解されがちですが、個人としての思想は独立していながら、同時に他者に貢献するという、一見相反しているように思える人生の目標を掲げている点は忘れてはならないポイントです。


本書は、アドラー心理学の初心者向けガイドブックですが、個人的には心から賛同できる内容でした。


アドラー心理学は深いですね。。。


(2021年2月3日追記)

続編の『幸せになる勇気』の書評もブログ記事にしました。


[幸せになる勇気] 『嫌われる勇気』続編で完結するアドラー心理学 ~ 人間のすべての喜びは「対人関係」である



(2021年2月26日追記)

『嫌われる勇気』 の著者である岸見一郎氏の『アドラー心理学入門』を読みました。

以下はp.134の引用です。


アドラーは人生には避けて通ることのできない課題がある、といいます。

仕事の課題、交友の課題、愛の課題です。

人生の課題に向かうには努力も忍耐もいります。

ところが、それらの課題を解決する能力がない、と考えて、人生の課題から逃れようとすることがあります。


『アドラー心理学入門』は、『嫌われる勇気』 『愛される勇気』のエッセンスを集大成した名著です。


コメント