[行動経済学の実例] 生涯賃金やゲームスコアを最大化するナッジとは?

行動経済学とは、「経済学の数学モデルに心理学的に観察された事実を取り入れていく研究手法である」(Wikiより)。

最近2冊の行動経済学の本を読みました。


どちらも行動経済学の理論をやさしく解説しながら、日常生活での実践を具体的に説明してくれる良書です。

以前の記事「ヤフオク高値落札にみる行動経済学」でも、行動経済学の考え方を応用しましたが、今回は行動経済学を体系的にまとめ、いくつかの実例に当てはめてみました。

1. 行動経済学の基礎

1.1 プロスペクト理論

(以下は「行動経済学の使い方」からの引用を含みます)

行動経済学では、従来の経済学とは異なり、「プロスペクト理論」と呼ばれる考え方で、人々は意思決定すると考えられています。

従来の経済学では、人間は将来起こり得る事態が発生した際の満足度をその発生確率で加重平均した値をもとに意思決定していると考えられていました。

しかし、行動経済学では、「確実性効果」「損失回避」という2つの特徴(これをまとめてプロスペクト理論と呼びます)で意思決定していると考えられています。

確実性効果とは、確実なものと、わずかに不確実なものでは、確実なものを強く好む傾向のことを指します。

損失回避とは、利得を生じた場合の価値の増え方より、損失が生じた場合の価値の減り方のほうが、より大きいということを指します。

プロスペクト理論(損失回避の法則より引用)

損失回避のもう一つの特徴は、利得が増えていったときも、損失が増えていったときも、増えていくことによる感じ方は小さくなるというものです。

株式で株価が下がった場合に、損切りができないという行動は、この損失回避効果で説明できます。

プロスペクト理論では、人々は「参照点」(参照価格)との差から価値を感じます。参照点は、通常現在の状況を基準に考えます。

1.2 フレーミング効果

フレーミング効果とは、同じ内容でも表現方法を変えることによって、人々の意思決定が異なることをいいます。

フレーミング効果の詳しい解説は、「フレーミング効果(ものはいいよう):行動経済学とデザイン29」を参照ください。

このサイトから以下引用します。

「キューバが「貧乏人のなかで一番健康な国」なのか「健康な人のなかで一番貧乏な国」なのか、線の引き方を変えるだけで感じ方がガラッと変わることを示しています」

フレーミング効果は日常生活のさまざまな局面で見かけることができます。

1.3 現在バイアス

現在バイアスは、ダイエットの「先延ばし行動」にみられる計画を先延ばししてしまう概念や、遠い将来よりも今すぐにもらえる金(たとえ遠い将来のほうが金額が高くても)を選んでしまうという行動に現れます。

現在バイアス(医療現場の行動より引用)

2つの高さの異なる木を遠くから見た場合と、近くから見た場合で、高さが異なって見える現象で説明することができます。

現在バイアスによる先延ばし行動を減らすためには、コミットメント手段という罰則やデフォルトを変更するなどが有効です。

1.4 互恵性と利他性

他人からの親切な行動に対して親切な行動で返すという互恵性、他人の利得から効用を得るという利他性を、社会的選考と呼びます。

1.5 ヒューリスティックス

合理的な推論に基づく意思決定には、思考費用と時間がかかるため、直感的意思決定を利用することをヒューリスティックスと呼びます。

ヒューリスティックスの例として、
  • サンクコストの誤謬:取り戻せないサンクコストを回収しようとする誤った判断
  • 選択過剰負荷/情報過剰負荷:選択肢が多過ぎてどれを選ぶか意思決定をしなくなる
  • 平均への回帰:平均値より高い数字が出ると次は低くなるという因果関係があるように誤解してしまうこと
などがあります。また、
  • アンカリング効果:全く無意味な数字であっても、最初に与えられた数字を参照点として無意識に用いてしまい、その数字に意思決定されてしまうこと
  • 極端回避性:同種の商品の価格や品質が上・中・下の3種類あった場合に、多くの人は両端のものを選ばず、真ん中のものを選ぶ傾向がある
  • 社会規範と同調効果:同僚や隣人の行動を見て、自分の意思決定をする傾向があること
もヒューリスティックスの例です。

2. ナッジとは

ナッジとは、行動経済学的知見を使うことで、人々の行動をより良いものにするように誘導することです。

代表的な例として、臓器提供の意思表示があります。

日本人の41.9%の人たちは、「脳死と判定されれば(どちらかというと)臓器を提供したい」と考えている(2017年)にも関わらず、実際に臓器提供意思を記入している人の割合は、世界的にも低い12.7%に留まっています。

これは、「提供しない」がデフォルトになっているからで、逆に「提供する」がデフォルトになっているフランスなどは99%が臓器提供意思ありとなっています。

「オプト・イン」「オプト・アウト」という言葉があります。もともとの意味は、ダイレクトメールなどを受け取る選択として使われます。

「オプト・イン」の場合は、メールを受け取る側が希望してはじめてメールが送られてくるのに対して、「オプト・アウト」の場合は、受け取る側の意志とは無関係に、メールを送る側が勝手にメールを送り付けることができます。

ワクチン接種は通常「オプト・イン」で、接種希望者が予約をすることになりますが、「オプト・アウト」で、デフォルトで接種日が決められていると、接種率が約10%上昇するとのデータがあります(ただし、その場合は71%が決められた接種日に無断で来なかった)。

臓器提供の意思表示をするには、運転免許証、保険証、マイナンバーカードに非常に小さい文字で書かれている「はい」の部分に丸印でマークを入れ、名前を記入する必要があります。

ナッジが人々の選択を特定の方向に誘導することに対して否定的な考え方をする人もいます。

しかし、人々の好みの多様性については、ナッジでは選択の自由が保障されています。

また、ナッジがあると学習の機会が奪われるのではという批判もありますが、人生で何度も行わないような意思決定にはそのような批判は当てはまりません。

3. 行動経済学の実例

3.1 タクシー運転手

タクシーの運転手の勤務について、時間当たり賃金が高いときに長く働き、低いときに短い時間働くことで、週単位や月単位の総労働時間が変わらない場合でも所得金額を増やすことができます。

しかし、所得が高くなると余暇を楽しみたいと思うため、労働時間が短くなってしまうのです。

行動経済学の観点で分析すると、タクシー運転手は1日当たりの所得目標を設定していて、それを参照点としているので、参照点以上だと満足度の増加が小さいので、仕事を早めに終えてしまうのです。

以前、タクシーを利用したときに、運転手の方とタクシー業界の報酬について詳しく話を伺う機会がありました。

タクシー運転手の報酬というのは、定額制と報酬制の組み合わせで、長時間働ければそれだけ収入も上がる仕組みです。

また、深夜勤務のシフトを最大限組み込むと、身体にはキツイですが、やはり収入も上がるそうです。

若い世代の労働者にとっては、頑張って働けばかなりの高給取りになれるということですが、労働時間が長いと休暇や余暇の時間がなくなるので、20代や30代で(他にお金を使う暇がないので)高級外車を乗り回している人も少なからずいるとのことでした。

一方、50代や60代以降になると、長時間労働に限界があるので、月収は手取りで成果報酬含めても若い世代にはかなわないとのことでした。

これは、若い世代は1日当たりの所得目標を設定していないので、やる気があって余暇を楽しむこともなく脇目も触れずがむしゃらに働けば、高額報酬となるわけです。

50代や60代となると、生活資金の必要性から計算した1日当たりの所得目標を設定しているので、所得金額を増やせません。

このように、タクシー運転手の年齢による報酬の格差は、このように行動経済学の「参照点」という概念から説明することができます。

3.2 ゲームのスコア

ゴルファーにとっては、バーディパットでもパーパットでも同じだけの集中力でパットを打つ方がゴルフの成績が良くなります。

しかし、損失回避の観点から、パーを取れずにボギーになることを極端に嫌うため、パーパットの成功率のほうが、バーディパットの成功率よりも高いことが明らかになっています。

私はゴルフをあまりやらないのですが、ゴルフの代わりに、ダーツのカウントアップで同じ現象を説明できます。


カウントアップにはいくつかのルールがありますが、一番簡単な1ラウンドで3本の矢を投げて、8ラウンドの合計得点を競うという場合を考えます。

矢を投げる条件(距離、難易度)は常に一定なので、ハイスコアを狙うためには、毎回同じだけの集中力で矢を投げることが求められます。

セオリーでは、常にダーツ板の中央のブルズアイという丸い枠を狙います(丸い枠の外側が25点、内側が50点)。

カウントアップでは、8ラウンド合計で400点というのがひとつの基準なので、1ラウンド平均50点をマークをする必要があります。

1ラウンドで矢を2回投げて非常に低い点数だった場合、3投目は集中力を高めてブルズアイを狙うのです。当然、3投目のブルズアイ的中率が、プレイ中で最も高くなります。

これは、3投目を投げてそのラウンドの合計点を何とか50点以上にしたいという参照点からの損失回避の力が働いているものと推測できます。

3.3 賃金

物価が2%上がっているときに賃金が1%上昇するほうが、物価が2%下がっているときに賃金が1%カットされるよりも嬉しいと思ってしまうのは、現在の名目水準が参照点になり、それより下がることを損失とみなしてしまうが理由です。

また、賃金をカットすると労働者が企業への信頼を失ってしまうというモラルダウンの発生があります。

このような理由から、物価が下がるデフレでも賃金が下がらず、また、賃金を下げなかった企業ほど景気が上昇しても賃金が上昇しないということが生じるのです。

また、年功序列(年功賃金)の考え方も、行動経済学で説明することができます。


毎年均等、毎年減少、毎年増加といったさまざまな賃金プロファイルのなかで、現在価値が最も高いのは、現在の賃金が最大で、その後減少していくというタイプのものです。

しかし、アンケートの結果からは、現在価値が最大になるプロファイルを選んだ人は7.3%に過ぎず、多くの人は、現在価値が低いにも関わらず、毎年賃金が上昇していくパターンを選んでいました。

現在価値が少ないにも関わらず、賃金が上昇してゆくプロファイルを人々が選ぶ理由は、現在の賃金水準を参照点にするため、賃金が減少してゆくと損失と感じるからと、現在多くの賃金をもらうと、現在バイアスのため無駄遣いをしてしまうので、年功賃金をコミットメント手段として利用しているからです。

この考え方は、生涯年収にも当てはめることができるのではないでしょうか。

年収や時給が高い年齢では、長時間勤務して、年収や時給が下がったら、勤務時間を減らすというのが生涯賃金を最も効率的に高くする方法です。

もちろん、年収や時給にかかわらず、生涯通じて可能な限り長時間勤務すれば、生涯賃金も高くなるかもしれませんが、それでは健康を害してしまったり、余暇の時間が持てないなどの弊害が生じます。

若いときには安月給で長時間働いて、同じ会社に勤務を続け、年功序列とともに年功賃金の恩恵を受けるというのが、これまでの日本企業の典型でしたが、必ずしも生涯年収を最も効率的に高くする方法にはなっていません。

これは、参照点からの賃金低下の損失回避という、行動経済学的な意思決定に影響されているからです。

では、生涯年収を高い方向に誘導するナッジはどんな手段が考えられるでしょうか?

それは、社会人としての国民が、伝統的経済学だけでなく、行動経済学をしっかりと理解するのが最も大事ではないかと思います。

調べたところ、行動経済学は大学のカリキュラムが中心となっており、高等教育では学習の機会がほとんどないようです。

以上、行動経済学の実例をいくつか紹介しましたが、プロスペクト理論に代表される行動経済学はまだ歴史も浅いこともあり、教育現場で取り上げられることは多くありません。

しかし、人間の行動が理屈だけで動いているわけではないのは明白であり、心理学を実社会に応用できる行動経済学の考えは、知っていればとても役に立つものです。

行動経済学のような新しい分野についても、高等教育でしっかりと学習する教育機会を設けるのが、国民にとって最も役立つナッジではないかと思います。

コメント