J.S.バッハ最晩年の大傑作 [音楽の捧げもの] ピアノ/チェンバロ演奏の名盤を聴こう

J.S.バッハの「音楽の捧げもの」は、1つの主題に基づく16の作品からなる曲集で、対位法芸術を最大限に駆使されたバッハ最晩年の大傑作です。

トリオ・ソナタ以外は楽器の指定がないので、発売されているCDも、室内楽アンサンブルのものから、ピアノやチェンバロの独奏までさまざまです。


バッハの作品のなかでは、決して演奏頻度の高い楽曲ではないのですが、個人的には「音楽の捧げもの」は、「フーガの技法」「マタイ受難曲」と並んで、古今東西の音楽の最高傑作というだけではなく、全人類の遺産ではないかと考えています。


私はかつて「音楽の捧げもの」をピアノコンクールで弾いたことがありますが、「音楽の捧げもの」を弾くというのは、神に祈りをささげるような体験でした。

以下では、ピアノやチェンバロの演奏に注目して、名盤を比較試聴してみました。

0. 音楽の捧げもの

「音楽の捧げもの」は、バッハが1747年にフリードリヒ大王の宮廷を訪ねた際、以下のようなハ短調のテーマ (Thema Regium) を大王より与えられたことがきっかけで生まれた楽曲です。

大王の主題

以下Wikiより引用します。

王の与えた主題を用いて即興演奏を求められたバッハは3声のフーガを演奏した。6声のフーガの演奏も求められたがさすがに即興では難しく、自作の主題による即興演奏を行った。のちにその場で果たせなかった6声のフーガを含むこの作品を王に捧げたと言われる。

2曲のフーガはリチェルカーレと題されている。一曲は3声のフーガで、これが王の前での演奏に近いのではないかとも言われる。もう一曲が6声のフーガである。10曲のカノンのうち9曲は「謎カノン」と呼ばれる形式で書かれている。即ち単旋律に記号が付されており、演奏者はその記号に基づいて曲を完成させねばならない。

(引用おわり)

6声のフーガは6声のリチェルカーレと呼ばれており、「音楽の捧げもの」の曲のなかでは最も長く、かつ最も複雑なものです(冒頭から9曲目)。

6声のリチェルカーレはバッハの鍵盤音楽の最高峰とも言われており、演奏も最高の難易度なのですが、終始スローテンポのフーガなので、聴いている分にはそれほど難易度が高く聞こえません。

しかし、演奏者にとっては、6声の旋律を同時並行で奏でることは至難の業で、下の写真のように練習用のピアノスコアは、蛍光ペンで6声を色分けして分析していました。

「音楽の捧げもの」の楽譜(6声のリチェルカーレ)

YouTubeを探してみると、6声のリチェルカーレの旋律ごとに色と図形で遷移をビジュアル化している映像を見つけました。

Bach, Ricercar a 6 (from The Musical Offering)

楕円が主旋律を表し、その他の旋律は菱形で表現されています。楽器はハープシコードとオルガンを使っているそうですが、コンピュータでどのような処理をしているのか、とにかくこんな便利なものを作ってくれる人がいて無料で使えるというのは、ネットであらゆる情報が入手できる便利な世の中ですね。。。

それにしても「音楽の捧げもの」は不思議な魅力を持った楽曲です。大袈裟な表現ですが、弾くたびに「神への祈りを捧げる」ような崇高な気持ちになります。

フーガという曲の構成の特徴なのか、人知を越えた、なにか宇宙的な壮大さを感じます。

「音楽の捧げもの」の16の作品のなかでは、第1曲の「3声のリチェルカーレ」と、第9曲の「6声のリチェルカーレ」、そして第10曲~第12曲のカノンがチェンバロやピアノの独奏で良く演奏されます。

バッハの曲を弾くのに、チェンバロかピアノかどちらがより適切かという議論は以前からありますが、「どちらでもよい」というのが多くの意見だと思います。

カンタービレ(歌うように)で歌う奏法ということでは、チェンバロよりピアノのほうが明らかに表現力では有利と思えますが、個人的には、歴史的に正しい楽器だからチェンバロで弾くということに捉われずに、ピアノであっても、演奏者がバッハを正しく弾くのであれば、何で弾いても良いのではと思います。

以下では、ピアノ演奏を中心に、一部チェンバロ演奏のCDも含めて紹介します。

1. ニコラーエワ盤

ロシアの名ピアニストのタチアナ・ニコラーエワの演奏です。録音は1967年。


この2枚組CDには、「フーガの技法」とあわせて「音楽の捧げもの」の「3声のリチェルカーレ」と「6声のリチェルカーレ」が収録されています。

「音楽の捧げもの」をピアノで演奏したCDは非常に少ないなか、現時点ではベスト盤ではないかと思います。

終始淡々と演奏していますが、肝要な部分の強弱はしっかりとつけて主題がしっかりと定位する技巧はさすがです。

演奏は、平たく言ってしまえば、「神の境地に達感している」というのでしょうか、とにかく神々しさに圧倒されてしまいます。

ピアノにも関わらず、演奏スタイルはむしろチャンバロのように抑揚が抑え気味で淡々と進みます。

6声のフーガであっても、自己主張の要素は極力排除されているように聴こえます。

それでいて、楽曲の締めくくりまで起承転結がしっかりと構成されており、気が付けば演奏が終わっているというのとは対極の、聴き終えたあとにズシンと心に響くものがあります。



2. リヒター盤

もはや説明の必要のないカール・リヒターによる歴史的名盤です。録音は1963年。


オーレル・ニコレ(フルート)、オットー・ビュヒナー(ヴァイオリン)、ジークフリート・マイネッケ(ヴィオラ)など、当時の最高レベルの名演奏家による歴史的決定版といえるものです。

合奏曲のチェンバロはカール・リヒター演奏なのですが、独奏曲はヘトヴィヒ・ビルグラムが演奏を担当しています。

ヘトヴィヒ・ビルグラムは録音当時は弱冠30歳ですが、女性にしては堂々とした骨太の演奏です。

「3声のリチェルカーレ」と「6声のリチェルカーレ」とも、比較的早いテンポですが宗教色の強い演奏です。リヒター盤ならではの張りつめた緊張感が伝わってきます。

チェンバロで演奏するバッハの模範的CDは、レオンハルト盤であると思いますが、過分に教条的にならずに、かつ神聖さを保つバランスの良い演奏としては、本CDがベストだと思います。

おそらく多くの人にとってもこのリヒター盤は「音楽の捧げもの」のリファレンス盤になっていると思いますが、時代を超えた決定盤であることは間違いないでしょう。


3. 菊池裕介盤

菊池裕介の2枚目のアルバム「B-A-C-H~変貌するバッハ、トランスクリプションズ」に「6声のリチェルカーレ」が収録されています。リリースは2009年。


こちらはピアノ特有の豊かな表現力を全面に出したオーソドックスかつドラマチックな演奏です。

バッハをカンタービレ豊かに演奏することには、好みは分かれると思いますが、私はこの演奏をとてもに気に入っています。コンクールに向けて6声のリチェルカーレを練習していたときは、この演奏スタイルを目指していました。

個人的には、「音楽の捧げもの」をこんな風に弾けるようになりたい、という羨望の対象です。

菊池裕介の演奏は、ニコラーエワとは対極にありますが、この曲を徹底的に分析し尽くした意気込みのようなものがが良く伝わってくる、自信に満ちた説得力のある演奏です。

残念ながらCD盤は現在入手困難となってしまったようですが、SpotifyやAmazon Musicではカタログに残っているので聴くことができます。



4. リフシッツ盤

コンスタンチン・リフシッツはウクライナのピアニストです。2005年録音。レコード芸術 2010年10月号 特選盤。


18歳の卒業記念リサイタルのときに録音されたゴールドベルク変奏曲が絶賛され、グラミー賞にノミネートされたように、バッハを得意としています。

こちらは「音楽の捧げもの」全曲のスコアをすべてピアノで独奏した非常に珍しいCD盤です。

「音楽の捧げもの」全曲をピアノ演奏で聴いてみると、ゴールドベルク変奏曲全曲をすべて聴いたときにも通じる一貫性を体感することができます。

「音楽の捧げもの」を複数の楽器で演奏するスタイルが主流ではありますが、実は、私はそのようなスタイルよりも、単一の楽器ですべての楽曲を通して演奏するほうが好みです。

そいいう意味で、リフシッツ盤は「音楽の捧げもの」の貴重な録音だと思います。

リフシッツの演奏は、音の粒がきめ細かく非常に美しいのが特徴です。冒頭の「3声のリチェルカーレ」からその美しい音色にグッと引き込まれます。

「王の主題による各種のカノン」は、どれもピアノ演奏ならではのバリエーションを楽しむことができます。むしろピアノ曲に慣れてしまうと、オーケストラは違和感を感じてしまうほどです。

「6声のリチェルカーレ」は、非常に優しい幻想的な表現が特徴です。ここには宗教的なストイックさはありません。天才ピアニストがさらっと弾き流しているような印象を受けます。まるでペライアのバッハを聴いているかのようです。こんな「6声のリチェルカーレ」は他にはないと思います。

リフシッツ盤は掘り出し物的な発見があり、おススメです。



5. バーラミ盤

ラミン・バーラミはイラン生まれのピアニストです。2015年リリース。


「音楽の捧げもの」全曲のチェンバロパートをピアノで演奏したものとして、ユニークな試みだと思います。

アゴーギクの効いた表情豊かな部分と、ピリオド奏法的な淡々としたパートの対比が交錯して進みます。

爽快なバッハ体験とでも言ったら良いでしょうか。。。ここには神に祈りをささげるといった宗教的な要素は後退し、よりリアリスティックなバッハの世界観が展開されています。

ピアノ独奏の「6声のリチェルカーレ」は、トリオ・ソナタの後の第11曲に収録されています。

使用されている楽譜の違いなのか、もしくは一部本人のアレンジが入っているのか、一風変わったスローテンポの「6声のリチェルカーレ」です。

エンディングがやり過ぎと思えるほど非常に長く余韻を残して終わるので、印象に残ります(賛否両論あるかと思いますが)。

英国の大手DECCAからリリースされているので、将来性も楽しみなピアニストですね。



以上、J.S.バッハ最晩年の大傑作 [音楽の捧げもの] ピアノ/チェンバロ演奏の名盤ベストでした。

偉大な巨匠たちの演奏を比較試聴したあとで、自分のピアノ演奏を聴いてみるとあまりの落差に愕然としてしまいますが。。。もしご興味があれば以下をご試聴ください。

6声のリチェルカーレ

「音楽の捧げもの」は間違いなくバッハの大傑作だと思うのですが、ここ数年は新譜のリリースも少なく、寂しい限りです。

個人的な嗜好では、アンドラーシュ・シフが録音してくれたら、と願っていますが果たしてどうでしょうか。。。

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