中国杭州の霊隠寺を訪れて仏教のルーツに思いを馳せる

先月出張で中国の杭州を訪れた際、西湖近くの観光景勝地である霊雲寺(れいいんじ、りんにんじ)を訪れました。


霊雲寺の大雄宝殿

Wikiによると霊雲寺は、「霊隠寺は天竺僧の慧理によって、東晋の咸和元年(326年)に建てられたという。9世紀の会昌の廃仏によって寺は廃止されたが、その後、建隆元年(960年)に呉越王の銭弘俶によって霊隠寺が再建された。南宋時に五山のひとつに指定された。清の康煕帝によって雲林禅寺と名を改められた。康熙帝直筆の額が天王殿に残るほか、康熙帝と乾隆帝の碑亭がある。太平天国の乱で大部分の建築物は焼失し、現在の霊隠寺のほとんどの建物はその後に再建されたものである。大雄宝殿は1910年に再建されたが、1949年に倒壊し、1954年に建て直された」とあります。

入口から本堂までの塀

霊雲寺は中国禅宗の中でも十大古刹に数えられ、いくつもの宝殿や彫像物などの文化財もあり、中国国内からの参拝者も多い歴史あるお寺です。実際、私が訪れた時も、多くの参拝者や観光客(そのほとんどが中国人で欧米人はごくわずか)で賑わっていました。

ここでまず、簡単に仏教の簡単な整理から。。。

仏教は、紀元前450年ごろにインドで生まれた宗教で、教祖は釈迦(紀元前623年5月満月の日生まれ)、またの名をゴータマ・シッダールタと言います。仏教が中国に伝わったのは1世紀ごろ(後漢時代)と推定されています。

三国時代、南北朝時代に発展を遂げた仏教ですが、6世紀の北周の武帝の仏教・道教二教の廃毀で廃仏の危機にさらされますが、隋の時代になって復活し、やがて天台宗と禅宗が生まれることになります。

仏教が日本に伝来したのは6世紀の飛鳥時代ですが、仏教の可否を巡る争いは物部氏(反対派)・蘇我氏(擁護派)の抗争に発展し、用明天皇の後継者を巡る争いで物部氏が滅亡されるまで続きました。

仏教が日本に決定的に定着したのは、鑑真(688年生まれ)の来日があったからです。鑑真は唐の国に生まれた僧侶でした。鑑真は日本へ海を越えて渡るために6回目の挑戦でようやく成功しますが、5回目の失敗のときに両目を失明してしまいます。

鑑真

それでも執念で渡日を果たし、戒律の整備だけでなく、彫刻や薬草に詳しく、日本にとても影響を与え、重い税や貧困に苦しんでいた民衆を救済することにも積極的に取り組みました。

霊雲寺訪問に話を戻すと、まず入り口で入場券を購入します(45元、約720円)。霊雲寺は別途拝観料としてさらに30元がかかります。

入場券(上)と霊雲寺拝観券(下)

配られた焼香用の線香は、入り口を入ってしばらく進んだ焼香場に供えます。

焼香用の線香

霊雲寺の案内については、こちらのサイトが日本語でわかりやすく細かい部分も整理されて役立ちます。

大雄宝殿の内部には、仏像は釈迦如来仏(しゃかにょらいぶつ)の彫像が奉られています。彫像の高さは24.8メートル、石の蓮花座から背光頂までの高さは19.6メートル、仏像は9.1メートル、仏像の耳は1.3メートルです。この仏像は24本の樟(くすのき)の木材でできたもので、樟の木彫りの坐像としては中国で最大のものです。また、この像は中国の寺院の中でまつられている仏像の中で二番目に大きな仏像でもあります(上記サイトより)。

釈迦如来仏

そしてその彫像の後ろの壁は、「童子が観音を拝む」をテーマとする「善財童子五十三参」海島の立体群像です。この一連の彫像は高さ20メートルで、主に粘土で作られています。島の上には150体の大小の塑像があります。

善財童子五十三参

この彫像は実に迫力があり、ボッシュの「最後の審判」かのような威圧的な雰囲気に圧倒されてしまいました。

上部の苦悩の顔は、釈迦牟尼佛が雪山で生命を惜しまず修行していた様子だそうです。また、中央上部の金身像は地蔵菩薩で、その下の大きな仏像が観音菩薩だそうです。

善財童子五十三参(正面)

観音菩薩とは、何でしょうか?そもそも菩薩と如来とはどう違うのでしょうか?

仏教の初歩の話で恐縮ですが、如来とは、仏のさとりをひらいた仏さまを指します。一方、菩薩とは、仏のさとりを求める人を指します。したがって、如来が菩薩よりも偉いことになります。観音菩薩は苦しむ人々の声を聞き、救いを与えてくださる菩薩です。

こういう基本的な知識も、(座学よりも)こうして仏教のゆかりの地を訪れて初めてしっかりと理解することができます。

さて、大雄宝殿から少し歩くと、奥の裏手に薬師殿があります。こちらは1993年に再建された新しい建物です。内部には、大きな薬師仏像が中心に鎮座しており、周囲には何百席もの法事用?の席が設けられています。

薬師仏像

この薬師如来を前にして、中国の人たちは身体を上下に曲げるような恰好をしながら膝まずいたり頭を座布団にすりつけるほど深くお祈りを捧げていました。日本のとはずいぶん違います。私たちも見様見真似で同じようなお祈りを。。。(ちなみに二礼二拍手一礼は神社だけです)。

日本にも奈良に有名な薬師寺がありますが、薬師仏(薬師如来)は真言宗ではあまり重要視されませんが、天台宗やチベット仏教では、薬壺を持ち病気を治す仏様として知られる如来の一尊です。以下はこちらのサイトからの引用です。

西方極楽浄土の阿弥陀如来に対して、薬師如来は東方浄瑠璃界(いわゆる現世)の教主とされています。

阿弥陀如来は死後の来世の平穏を司る仏なのに対して、薬師如来は現世での苦しみを取り除き安泰を司る仏として扱われています。

如来とは、そもそも人間が解脱し悟りを開いた状態を指しますから、薬師如来も「悟りを開いた人物の一人」という事になります。

はじめて人間で悟りを開いたのは釈迦であり釈迦が仏教の開祖ですが、仏教が広まるにつれ、徐々にその教えが分化したり密教が栄え始めたりして行きました。

そんな中でのちに薬師如来、阿弥陀如来など、釈迦以外にも悟りを開いた如来が現れ、大日如来という仮想の存在も生まれました。

本殿の左右両側には「薬師十二神将」と呼ばれる十二体の塑像があります。同僚は自分の守り神を見つけたといって喜んでいました。

さて、霊雲寺の拝観が終わったあとは、ガイドの勧めで近くの裏山を頂上まで登ることになりました。なんでも重要なスポットがあるとのことで。。。

革靴で石場の上り坂はかなりキツイものがあります。今日の気温は30℃を軽く超えており、Yシャツも汗でびっしょりとなります。

岩場を上ります

歩くこと20分ほど、ようやくここが頂上だという場所に出ました。が、特に景観が素晴らしいということでもなく、「飛来峰頂」と書かれた石の前で皆記念撮影をしています。

どうやらこの「飛来峰頂」というのは、どこからか山が飛んできたという名石らしいということです。言い伝えによると、今から1600年前のことです。彗理は天竺(今のインド)から杭州に来て、この山を見てインドの霊鷲山の一角である須弥山と似ているので、もしかしたらこれはインドから飛んできたのではないかと思い、これを飛来峰と名付けたということです。

飛来峰頂の岩

ここからは下りになります。今度は青林洞という場所を目指します。忙しい。。。

青林洞

寺の近くの飛来峰には、呉越時代から元代にいたる時代に刻まれた300体を越える石刻像があり、やはり全国重点文物保護単位に指定されています。

しかしその多くは、残念ながら毛沢東時代の文化大革命で破壊されてしまい、飛来峰の石刻像の多くも顔の部分が無残に削り取られてしまっているものばかりでした。

中国4000年?の歴史は、創造と破壊の繰り返しだったため、仏教の文化遺産で最も保存状態の良いものは、中国国内ではなく、日本、韓国、台湾といった海外にあるのだそうです(以下はこちらのサイトから)。

隋唐時代の中国文化は日本にある。
明清時代の中国文化は韓国にある。
民国時代の文化は台湾にある。

実際、京都を訪れる中国人観光客は、日本の古寺を訪問して唐を連想するのだそうです。

青林洞の解説

霊雲寺の敷地内には、日中国交正常化30周年を記念して2002年に建てられた空海の像があります。

現地の中国人の案内で訪れたのですが、まず、日本への仏教の伝来者である鑑真は中国人にも非常に有名だということです。一方、最澄や空海はあまり有名ではないとのことでした。

周辺にはこれ以外にも有名な布袋の石像など見所がたくさんあるのですが、時間の都合で次回の楽しみとなりました。

河坊街という杭州で一番有名な商店街の入口には、この布袋像と同じ黄金の布袋が置かれています。

河坊街の黄金の布袋像

河坊街

このあたりの観光地については、こちらのサイトが写真も豊富に詳しく紹介しています。西湖周辺の観光地については、こちらのサイトもご参照ください。

今回は杭州の霊雲寺とそれにまつわる仏教について記しました。杭州についてのブログ記事はこちらに書きましたが、中国のここ数年の発展は目を見張るものがあります。残念ながら日本のメディアが発信している中国はネガティブな偏向されたものが多く、正しい中国を理解することの妨げにしかなっていません。

またネットでも中国と日本の文化の起源について衝突が絶えません(こちらのサイトにまとめがあります)。

このような現状は大変残念なことです。ぜめて直接中国現地を訪れて中国の人や文化と接すれば、いろいろな誤解や偏見は解けるのではと思います。

下の格言は中国の友人から教えてもらったものです。意訳すると、「貴重なものとは、すなわち寛容のことである」という意味です。今の日本と中国の国民全員が真摯に受け止めるべき格言ではないでしょうか。


今回の旅行で、現地を訪れて初めて理解できるものが多いことを改めて痛感しました。機会があれば是非また杭州を訪れてみたいと考えています。

(おわり)

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