毎日とんでもない暑い日が続きますね。。。
こんな酷暑の日々に、今年(2025年)で没後50年を迎えたショスタコーヴィチの楽曲を聴くのはいかがでしょうか?
以下に、ショスタコーヴィチの暗くて重い作品群のなかでも、酷暑でさえ肌寒く感じるような超激熱な作品を3つ紹介します。
ショスタコーヴィチの作品を聴いて酷暑を乗り切りましょう!
前述のとおり、第5番が突出して有名なのに比較すると、他の交響曲は、芸術的な完成度は非常に高いにも関わらず、取っつきにくいこともあり、一般的にはあまり知られていません。
私は、バルシャイとヤンソンスのショスタコーヴィチの以下の交響曲全集のCDセットを愛聴しています。
バルシャイ指揮ケルン放送交響楽団の全集は、どの曲の演奏も完成度が高く、定評のあるものです。
もう一つのヤンソンス指揮のセットは、8つのオーケストラ(ベルリン・フィル、ウィーン・フィル、バイエルン放送響、フィラデルフィア管、サンクト・ペテルブルグ・フィル、ピッツバーグ響、ロンドン・フィル、オスロ・フィル)と、17年間の歳月をかけて完成させたもので、こちらも定評のあるものです。
ショスタコーヴィチの15の交響曲のなかでもっとも人気と知名度のあるのは、交響曲第5番なのですが、第5番以外の交響曲のなかでは、どれが好みかはまさに百人百様です。
それぞれの交響曲の聴き所は「ショスタコーヴィチの部屋」というサイトに詳しいです。
Facebookのグループ投稿で、「ショスタコーヴィチの交響曲のなかでどれが良いか」という投稿に多くの人がコメントを返していました。
まさに、個人の趣味は千差万別。。。しかしここまで人気がバラバラなのも珍しいですね。
[ショスタコーヴィチ 弦楽四重奏曲] 陰鬱さに満ちた名曲揃い - これを聴いて涅槃の境地に達しよう
0. ショスタコーヴィチ
ドミートリイ・ショスタコーヴィチ(1906–1975)は、20世紀ソ連を代表する作曲家です。
若くして才能を認められましたが、スターリン体制下で何度も弾圧を受けました。そのため音楽には、表向きの明るさと内面の苦悩という「二重構造」が見られます。
体制に翻弄されつつも芸術的信念を貫いた、稀有な音楽家といえるでしょう。
交響曲、弦楽四重奏、映画音楽、オペラなど幅広いジャンルで活躍しましたが、特に交響曲第5番「革命」が有名ですね。
ショスタコーヴィチ 交響曲第5番ニ短調作品47《革命》 第4楽章
(指揮:ショルティ)
というか、「革命」以外の楽曲は、よほどのクラシックマニアでない限り、知らないのではと思います。
交響曲の作曲家といえば、ベートーヴェン、モーツァルト、チャイコフスキー、ブラームスなどが筆頭で、少し音楽が好きな方は、ブルックナーやマーラーを聴くと思いますが、ショスタコーヴィチの交響曲を全て愛聴している人は極めて稀な存在です。
しかし、ショスタコーヴィチの作品は派手さこそ少ないものの、内面の葛藤や深い精神性が刻まれています。
政治的抑圧の中で生まれたその音楽には、他にない緊張感と鋭い芸術性があり、静かな旋律の中に隠された怒りや哀しみは、聴く者の心に深く響きます。
表面的な評価に惑わされず、今年が没後50年ということもあり、一度じっくり聴いてみる価値のある作曲家ではないでしょうか。。。
というわけで、以下に、ショスタコーヴィチの作品のなかでも、独断と偏見で「これを聴かずに死ねるか」という超激烈な3作品を紹介します。
まだ7月というのに、毎日35℃を上回る猛暑が続く日々。。。そんな暑さもこの激烈3作品を聴けば、むしろ涼しく感じるかもしれない?
笑
1. 交響曲第8番
ショスタコーヴィチ(1905~1975)は生涯で15の交響曲を遺しています。
ドミートリイ・ショスタコーヴィチ(Wikiより)
私は、バルシャイとヤンソンスのショスタコーヴィチの以下の交響曲全集のCDセットを愛聴しています。
バルシャイ指揮ケルン放送交響楽団の全集は、どの曲の演奏も完成度が高く、定評のあるものです。
もう一つのヤンソンス指揮のセットは、8つのオーケストラ(ベルリン・フィル、ウィーン・フィル、バイエルン放送響、フィラデルフィア管、サンクト・ペテルブルグ・フィル、ピッツバーグ響、ロンドン・フィル、オスロ・フィル)と、17年間の歳月をかけて完成させたもので、こちらも定評のあるものです。
ショスタコーヴィチの15の交響曲のなかでもっとも人気と知名度のあるのは、交響曲第5番なのですが、第5番以外の交響曲のなかでは、どれが好みかはまさに百人百様です。
それぞれの交響曲の聴き所は「ショスタコーヴィチの部屋」というサイトに詳しいです。
Facebookのグループ投稿で、「ショスタコーヴィチの交響曲のなかでどれが良いか」という投稿に多くの人がコメントを返していました。
まさに、個人の趣味は千差万別。。。しかしここまで人気がバラバラなのも珍しいですね。
そんな15の作品のなかで、個人的には、戦争の悲惨さを最も重厚に表現した第8番が彼の交響曲ではベストではないかと思います。
個人的な愛聴盤は、PentatoneのSACDハイブリッドのBerglund盤
Pentatone音質は最高だし、サラウンド効果抜群で、まさに戦場のど真ん中にいるような臨場感を満喫できます。
1.1. 第1楽章
第1楽章(Allegro non
troppo)は、彼の作品群の中でも最も重く、深く、悲劇的な音楽のひとつです。
この楽章は全体で約25分に及び、5楽章からなる交響曲全体の心理的・構造的な核心を担っています。
Symphony No. 8 in C Minor, Op. 65: I. Adagio
冒頭、低音域のファゴットが独白のような旋律を静かに語り始めます。
続いてチェロとコントラバスが重く沈む音を加え、暗く重苦しい雰囲気が広がっていきますが、これは単なる序奏ではなく、すでに音楽全体の感情的トーンを決定づける重要な瞬間です。
和声は不安定で、調性は明確にならず、あたかも迷路に入り込んだような不穏さが聴き手を包み込みます。
やがて、ソナタ形式に則って第1主題が提示されますが、それは明快でも華やかでもなく、むしろ内にこもった怒りや絶望がにじみ出たような旋律。
弦楽器が波打つように伴奏し、管楽器の不安定な挿入が精神的緊張をさらに高めます。
第2主題に入っても、通常のソナタ形式に見られるような抒情性や明るさはほとんど現れず、わずかな希望のような旋律が木管に現れてはすぐに霧の中に消えるような印象を残します。
展開部に入ると、音楽は次第に暴力性を増し、感情の爆発が始まります。ここらへんからが聴きどころ。
動機が分解され、再構成され、激しいリズムのうねりが音楽全体を揺さぶり、ティンパニやバスドラムなどの打楽器が強く打ち鳴らされ、金管が咆哮し、戦争の混沌や死の恐怖といったイメージが否応なく喚起されます。
もう熱々な感じです。。。
クライマックスではオーケストラ全体が極限まで音量と緊張を高め、まさに叫びともいえる音響に達しますが、その絶頂は決してカタルシスには至らず、むしろ、破壊の後の虚無が残されます。
再現部では主題が戻ってくるものの、もはやかつての姿を保ってはいません。
音楽は次第に力を失い、冷たく、疲弊したような響きが支配します。
コーダに至ると、音楽はまるで生き絶えんとするように静まり、低音がうつろに響く中で楽章は終わります。
ふぅ~
この第1楽章は、ショスタコーヴィチの交響曲中でも最も陰鬱で、精神的にも消耗させられる音楽でありながら、計り知れない深みと芸術的価値を持つものではないでしょうか。。。
1.2. 第2楽章
第2楽章は、第1楽章の重く深刻な雰囲気とは違い、短くて軽快なスケルツォ風の楽章です。しかし、その軽さは表面的なもので、どこか冷たくて不気味な感じがします。
弦楽器が規則正しく刻むリズムは、まるで機械のように正確で、ピッコロやクラリネットの鋭い音が加わり、まるで戦争の冷たく無機質な側面を表しているかのようです。
リズムはポルカのように明るく見えますが、実際には皮肉や冷笑が込められており、戦争の狂気や非人間性を暗示しています。
音楽は短く断片的な旋律が繰り返され、不協和音も混じり始めるため、聴く者に不安感を与えます。最後は無表情に終わり、どこか満足感のない終わり方をします。
この楽章は、戦争の恐ろしさを直接的に描くのではなく、機械的で冷たい動きや冷笑を通して、その異常さを強調しています。つまり、戦争の無意味さや人間の無力さを表現した、とても皮肉に満ちた楽章ですね!
1.3. 第3楽章
第3楽章は、ゆったりとしたテンポのラルゴで、深い悲しみと瞑想的な雰囲気が特徴です。この楽章は、まるで静かな嘆きのように始まり、内面の苦悩や喪失感を静かに表現しています。
冒頭は弦楽器の柔らかな和音で包まれ、木管楽器が穏やかに旋律を奏でます。音楽は非常に落ち着いているものの、その静けさの中に悲哀や絶望が漂っています。
旋律はしばしば断片的で、沈黙や間が多く取られることで、心の重さが強調されます。
この楽章は、戦争の惨禍を受けた人々の痛みや哀悼を象徴しているとされ、感情が激しく爆発することはなく、むしろ静かに深く胸に響く悲しみを描いています。
後半では音楽がやや盛り上がりを見せますが、決して明るさや希望には至らず、終わりに向けて再び静寂が戻ってきます。
全体として、第3楽章は激しい感情の爆発ではなく、内省的で瞑想的な悲しみを表現しており、第1楽章や第2楽章の緊張や皮肉とは異なる、穏やかながらも重い心情を伝えています。
戦争による喪失や悲哀を深く噛みしめるような、静かな祈りのような楽章と言えるでしょう。
1.4. 第4楽章
第4楽章は、「Allegro
molto」(非常に速く)というテンポで始まり、激しい緊張感と破壊的なエネルギーに満ちた楽章です。この楽章は全曲の中でも特に激烈で、戦争の混沌や暴力を象徴的に表現しています。
冒頭から弦楽器や金管楽器が力強く突進し、不協和音と激しいリズムが交錯します。
音楽は怒りや絶望、破滅への突進を感じさせ、まるで戦場の爆発や混乱を音で描き出しているかのようです。ティンパニや打楽器が激しく打ち鳴らされ、緊迫感を一層高めています。
この楽章が作品のクライマックスと言っても良いでしょう。
中間部では、荒々しい動機が何度も反復され、音楽は嵐のように激しくうねり続けます。金管の咆哮や弦の激しいトレモロが、絶望的な叫びを表現し、聴く者に強烈な感情を与えます。和声は複雑で不安定、調性もほとんど失われ、混沌とした印象を強めています。
終盤に向けて徐々に勢いを増しながらも、楽章の終わりは唐突で冷ややかに閉じられ、解決や安堵は全くありません。
この無慈悲な終わり方は、戦争の悲劇が終わることなく続くことを暗示しているかのようです。
第4楽章は、全交響曲の中でも最も激烈で荒々しい部分であり、戦争の破壊力と混乱、そして人間の絶望を生々しく描いた、非常に力強く迫力のある楽章となっています。
ここまで聴き進んだら、あとは軽い第5楽章のみ、あと一息です。。。!
1.5. 第5楽章
第5楽章は、全曲を締めくくる厳粛で荘重なフィナーレです。ゆったりとしたテンポで始まり、静かな悲しみと重い祈りのような雰囲気を漂わせます。
この楽章では、管弦楽全体が穏やかながらも深い感情を込めて奏でられ、過去の楽章で描かれた苦悩や混乱から一歩引いた落ち着きが感じられます。
しかし、それは決して明るい解決ではなく、戦争の悲劇を静かに見つめる冷静な哀悼の表現ですね。
主題はシンプルで抑制されており、弦楽器や木管楽器が穏やかな旋律を紡ぎ出します。楽章の後半には、より重厚で荘厳な響きが強まり、感情の深まりを感じさせますが、決して感情が爆発することはありません。
終結部では、楽器が一つずつフェードアウトし、最後は静かに消え入るように終わります。この終わり方は、戦争の悲劇が終わりを告げることなく続いていくかのような、重い余韻を残します。
第5楽章は、この交響曲全体の悲劇性と深い思索を締めくくる役割を果たし、ショスタコーヴィチの反戦的かつ人間的なメッセージを静かに伝える、荘重で感動的な楽章となっています。
以上、ショスタコーヴィチの交響曲第8番の紹介でした。
ハリウッドの戦争映画も顔負けのスペクタクル。。。
約1時間を通して聴くと初めはグッタリと疲れてしまいますが、何度も繰り返し聴いているうちに、不思議と心地良くなるのはどうしてでしょうか。。。?
ワタシは、ジョギングでハイペースで走るときにこの曲を聴くと調子が上がります
笑
万が一、交響曲第8番では物足りなければ、ぜひ次の「ムツェンスク郡のマクベス夫人」を!
2. 歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」
歌劇《ムツェンスク郡のマクベス夫人》(1934年初演)は、ショスタコーヴィチが作曲した最初の、そして最も物議を醸したオペラ作品です。
タイトルの「マクベス夫人」とは、この作品の主役を、シェイクスピアの悲劇『マクベス』に登場するマクベスの妻(野心家タイプの悪女の一典型とされる)になぞらえた表現です。
ショスタコーヴィチのオペラでは、もうひとつ歌劇《鼻》も評価が高いですが、個人的には断然こちらの《ムツェンスク郡のマクベス夫人》を推します!
原作はロシアの作家ニコライ・レスコフの中編小説で、帝政ロシア時代の田舎町を舞台に、義父と夫に抑圧された若い女性カテリーナが、不倫と殺人を重ねていく物語です。
【あらすじ】
第一幕 豪商イズマイロフに嫁いだカテリーナは退屈を持て余している。夫の出張中、新しい使用人セルゲイと関係を持ってしまい、深い仲となる。
第二幕 舅のボリスが、セルゲイとカテリーナの関係に気づき、セルゲイに鞭打ちをし、懲らしめる。恨みに思ったカテリーナは、ボリスの好物のキノコ料理に鼠用の毒を入れ毒殺。その後、出張から戻ってきた夫ジノーヴィも二人で殺してしまう。
第三幕 カテリーナとセルゲイは結婚式を挙げる予定にしているが、酔っぱらいが隠していたジノーヴィの死体を発見し、警察に通報。結婚式中に二人は捕まってしまう。
第四幕 セルゲイとカテリーナは流刑となる。カテリーナはセルゲイをまだ愛しているが、セルゲイはカテリーナに飽き、ソニェートカに心変わりする。セルゲイとソニェートカはカテリーナを笑いものとするので、カテリーナはソニェートカを道連れに入水自殺する。
いやー壮絶ですね。。。
音楽は非常に劇的で、リリカルな場面と凶暴な場面が激しく交錯し、性、暴力、殺人、権力の腐敗といったテーマがあけすけに描かれています。
特に当時としては異例の性的描写や、体制を風刺するような描写があり、1936年にスターリンが観劇後、新聞『プラウダ』で「音楽ではない(Сумбур
вместо
музыки)」と酷評され、突如上演禁止に。これがショスタコーヴィチのキャリアに大きな影を落としました。
後年になってその芸術性が再評価され、現代では20世紀オペラの傑作として数えられています。
この作品はホントにブッ飛んでいます。。。今年聴いた音楽作品のなかでも群を抜いてヘビーローテーションになっています
笑
愛聴盤は、ネルソンス指揮ボストン交響楽団 - カテリーナ役のKristine Opolais(ソプラノ、ネルソンスの妻)が凄まじい
約3時間の作品なので、以下にハイライトを紹介します
2.1. Act I Scene 2: Ay! Ay! Ay! Ay, besstïžiy, oy, ne ščípli ... Otpustíte, bábu
第1幕第2場「Ay! Ay! Ay! Ay, bessstïžiy, oy, ne ščípli ... Otpustíte,
bábu」は、女中アクシーニャがカテリーナの義父ボリスに性的ないたずらをされ、抵抗しながら叫ぶ場面です。
この瞬間は、オペラの中でもとりわけ生々しく、ショスタコーヴィチが社会の暴力性と不条理を音楽で鋭く描いた場面として知られています。
この場面の音楽は、非常に攻撃的で不協和音が多用され、旋律というよりも「叫び」や「うめき」に近い声楽表現が中心となっています。
アクシーニャが「アイ!アイ!」と叫ぶ部分は、調性的な美しさとはまったく無縁で、むしろ観客に直接的な不快感や緊張感を与えるように作られています。
これはショスタコーヴィチが意図的に選んだ手法であり、現実の抑圧や暴力を遠回しではなく、あくまで正面から描こうとする姿勢が表れています。
ボリスの行動は、単なる悪人として描かれているのではなく、彼が持つ家庭内での権力や、年長の男性としての支配力の象徴ともなっています。
彼はアクシーニャをからかいながら押さえつけ、同時にカテリーナにも嫌味を言うことで、家庭内の上下関係を明確にしますが、その振る舞いには、露骨な権力の行使と冷笑が混ざり合っており、観客に強い嫌悪感を残します。
音楽的には、金管や打楽器が目立ち、非常に騒々しく、リズムも荒々しく設定されています。
旋律らしい旋律は少なく、弦楽器は緊張感を煽るトレモロや鋭いアクセントを繰り返しながら、場面全体の混乱と不安定さを支えています。
また、歌唱と台詞の中間のような手法(スプレッヒゲザング的な表現)も多く、リアリズムと演劇性を高める効果を発揮しています。
この場面は、オペラ全体の中でも早い段階でカテリーナが置かれている閉塞的で暴力的な世界を観客に強烈に印象づける役割を果たしています。
ショスタコーヴィチは、このような描写を単なるスキャンダルや刺激としてではなく、当時の社会に潜む暴力性や女性の置かれた立場の過酷さとして描こうとしたのかもしれません。
結果として、この場面の過激さや風刺的な描写がスターリン政権からの批判を招く要因の一つとなりましたが、同時にそれは、ショスタコーヴィチの表現者としての誠実さと勇気を象徴する場面とも言えるでしょう。
オペラの中でも最も記憶に残る、強烈な一幕です。
2.2. Act I Scene 3: Kto ėto, kto, kto stučít? ... Proščáy ... Uydí tï, rádi bóga, ya múžnyaya žená
第1幕第3場「Kto ėto, kto, kto stučít?(誰?誰?誰が叩いてるの?)… Proščáy(さようなら)… Uydí tï, rádi bóga, ya múžnyaya žená(お願いだから行って、私は人妻よ)」は、カテリーナとセルゲイが初めて明確に親密な関係を築く場面であり、ドラマ的にも音楽的にも非常に濃密な感情が描かれる場面です。
この場面は夜、カテリーナの部屋で静かに始まります。彼女が不安げに「誰?誰がノックしてるの?」とつぶやきながら、物音に耳を澄ませる導入は、抑圧された生活の中で芽生えた緊張と欲望の予兆を感じさせます。
ショスタコーヴィチの音楽は、控えめながらも不穏な響きをもってこの場面を包み、観客に何かが起こることを予感させます。
やがてセルゲイが登場し、カテリーナと対話を始めます。
彼の言葉は最初から誘惑的で、挑発的です。音楽もまた、官能的な流れを帯び始め、木管や弦が甘やかで流動的な旋律を紡ぎます。
これまで義父ボリスと夫ジノーヴィイに囲まれて無機質な生活を送っていたカテリーナの中に、生身の感情が湧き上がってくるのです。
しかし、カテリーナは葛藤して「私は人妻よ、どうかお願いだから行って」と言います。
この言葉は理性の最後の砦のように響きますが、同時にその声にはためらいや弱さも感じられます。音楽はその揺れる心情を繊細にすくい取り、旋律はためらいがちな呼吸のように揺れ動きます。
セルゲイはなおも押し続け、カテリーナの孤独に共鳴するような言葉をささやきます。
その中で彼女の防御は少しずつ崩れていき、やがて二人は感情の高まりのなかで接近していきます。
音楽はここで最も濃密な官能性を帯び、旋律がうねるように絡み合い、二人の肉体的・精神的な結びつきを象徴します。
「さようなら(Proščáy)」という言葉が交わされる場面は、表面的には別れを装っていますが、実際には二人の関係が始まる決定的な瞬間として描かれています。
音楽もまた、表層の静けさの下に燃えるような熱情を感じさせます。
この場面は、カテリーナが社会的道徳を越えて自身の欲望に従う第一歩を踏み出す瞬間であり、その後の悲劇のすべての出発点でもあります。
ショスタコーヴィチはここで、愛と罪、孤独と誘惑の複雑な交錯を、緻密な音楽構造と濃厚な感情表現で描き出しています。
2.3. Act II Scene 5: Opyát’ usnúl ... Katerína L’vóvna, ubíyca! ... Nu? Čegó tebé?
第2幕第5場「Opyát’ usnúl ... Katerína L’vóvna, ubíyca! ... Nu? Čegó tebé?(また寝てしまった……カテリーナ・リヴォヴナ、殺人者!……で? 何の用だ?)」は、物語の中でも特に緊張感の高い場面の一つであり、殺人という事実が登場人物たちの間に明確に突きつけられる瞬間です。音楽は静かながらも不気味で、冷たい緊張感に満ちています。
この場面では、カテリーナが義父ボリスを毒殺した後、秘密裏に情事を続けていたセルゲイとともに過ごしています。
しかし、その状況は不安定で、彼女の罪はすでに周囲の疑念を呼び始めており、ついにセルゲイの口から「カテリーナ・リヴォヴナ、殺人者!」という決定的な言葉が発せられます。
この台詞は、彼女の運命が大きく転落していく予兆ともいえる瞬間であり、愛と共犯関係にあったはずの二人の間に、明確な「裂け目」が生じるポイントでもあります。
音楽的には、冒頭の「また寝てしまった……」の独白は、まるで夢の中にいるかのようなぼんやりとした弦の響きで始まります。
これはカテリーナの精神状態を反映しており、罪の意識、疲労、そして現実逃避のような心理が感じ取れます。やがてセルゲイが彼女を問い詰めるような言葉を投げかけるとともに、音楽は冷たく鋭くなり、弦の緊張したピチカートや木管の鋭い合いの手が、二人の間の不穏な空気を浮き彫りにしていきます。
「カテリーナ・リヴォヴナ、殺人者!」という言葉が放たれる瞬間は、旋律よりもむしろ語りに近く、感情を押し殺したような言い回しで、ぞっとするような冷酷さがあります。
ショスタコーヴィチはここであえて大きな音楽的爆発を避け、むしろ張りつめた沈黙と鋭い言葉の力によって、劇的な緊張を作り出しています。
その直後の「で? 何の用だ?」というセリフは、セルゲイが彼女への興味を失い、すでに利用価値のない存在として冷たく見下していることを示します。
ここでは愛情も罪悪感も失われ、二人の関係が虚無と裏切りに変わったことが、非常に静かで残酷なやりとりによって描かれます。
この場面の本質は、単に殺人の告発ではなく、「共犯だったはずの関係の崩壊」と「女性の孤立」を描いている点にあります。
ショスタコーヴィチは、劇的な動きよりも心理的な圧力に焦点を当て、冷たい現実がカテリーナを覆っていく様子を、沈黙と鋭い音楽の対比によって描き出しています。
全体として、第2幕第5場は、カテリーナの破滅が静かに、しかし決定的に始まる場面であり、音楽と演技が一体となって冷酷な現実を突きつける、非常に完成度の高いシーンです。
2.4. Act III Scene 6: Čto tï tut stoíš’? ... U menyá bïlá kumá ... Interlude
第3幕第6場「Čto tï tut stoíš’?(何を突っ立ってるんだ?)... U menyá bïlá kumá(わしには女房の親友がいた)... 間奏曲(Interlude)」は、物語の転換点ともいえる印象深い場面で、登場人物の内面と社会の暴力的な構造が交錯する瞬間です。
音楽とドラマが一体となり、不条理と狂気の空気を濃密に描き出します。
この場面は、シベリアへ流刑となった囚人たちの行進の一幕であり、舞台上には寒々しい荒野が広がります。看守が囚人たちを監視するなか、疲れ果てた囚人たちは機械的に動かされ、まるで物として扱われているようです。
その一人が動きを止めると、看守が「何を突っ立ってるんだ?」と怒鳴りつける──その無機質で暴力的な台詞から場面は始まります。
ここに登場する老囚人のモノローグ「わしには女房の親友がいた」は、単なる昔話のようでありながら、狂気と哀れさ、そして過去に取り憑かれた人間の精神の壊れ方を象徴的に表しています。
彼は昔の女との思い出をたどるように語りますが、それは秩序を失った記憶の断片であり、現実逃避のような語り口です。
ショスタコーヴィチはこの語りに、シンプルで断片的な伴奏をつけ、音楽的にはむしろ沈黙や間(ま)が支配します。音の少なさは、囚人たちの失われた人間性や希望の無さを象徴し、聴く者に強い不安感と孤独を与えます。
そして、その静かな語りのあとに挿入されるのが、壮絶な「間奏曲(インテルメッツォ)」です。
これは文字通り音楽だけの場面ですが、その激しさは全曲中でも最も苛烈な部分の一つです。管弦楽は突如として荒れ狂い、金管や打楽器が不協和音と轟音を巻き起こし、理性を超えた混沌を描き出します。
この間奏曲は、囚人たちの抑圧された怒り、カテリーナの精神の崩壊、そして暴力に満ちた体制の狂気を象徴しています。
間奏曲の中には、断片的にこれまでの動機や旋律の影が現れ、聴き手に過去の出来事を思い出させるように構成されています。
しかしそれらはもはや調和の中にではなく、歪んだ形で現れ、現実がどんどん狂っていく様子が音楽で描かれているのです。
この第3幕第6場全体は、物語のなかでも特に暗く、精神的に重苦しい場面ですが、そのぶんショスタコーヴィチの劇的表現力と音楽的構成力が際立って感じられる場面でもあります。
暴力の無意味さと、人間の内的な崩壊が、言葉と音によって強烈に迫ってくる瞬間です。
2.5. Act IV Scene 9: Vstaváy! Po mestám! Žívo!
第4幕第9場「Vstaváy! Po mestám! Žívo!(起きろ!持ち場につけ!急げ!)」は、物語の最終局面にあたる場面であり、カテリーナとセルゲイが流刑地の隊列の中に身を置く、凍てついたシベリアの荒野が舞台です。音楽とドラマの両面から、極限状態の人間性と、救いのない結末が描かれます。
この場面は、囚人たちがシベリアの労働キャンプに向けて整列させられ、冷酷な看守が「起きろ!持ち場につけ!急げ!」と怒鳴りながら彼らを駆り立てるところから始まります。
音楽は、軍隊的なリズムや粗暴な打楽器によって、厳しく威圧的な空気を表現しています。重く鈍い歩調、冷たい空気を思わせる無機質な響きが、自由を奪われた人々の運命を音楽に刻み込んでいます。
この場面では、かつて愛し合ったカテリーナとセルゲイの関係がすっかり壊れていることが明らかになります。セルゲイはカテリーナを完全に見捨て、他の若い女性囚人、ソニェートカに目を向け、彼女に取り入って甘い言葉を囁きます。
ソニェートカもまた、自分を守るためにセルゲイの誘いに応じており、ここでは人間関係がすべて利害と自己保存の原理によって動いている様が描かれます。
カテリーナは、セルゲイの裏切りと冷淡さを目の当たりにし、絶望の底に沈みます。かつての愛も希望も砕け散った今、彼女には何の支えも残されていません。
音楽はここで一瞬静まり返り、弱音器をつけた弦楽器や沈鬱な木管の響きが、カテリーナの内なる孤独と虚無を描き出します。
やがて、カテリーナはソニェートカに近づき、彼女とともに川辺へ向かいます。そこでカテリーナはソニェートカを巻き込んで、自ら身を投げる――この劇の衝撃的なクライマックスです。
ショスタコーヴィチは、この自殺の瞬間を、感情を煽る音楽ではなく、むしろ冷たく突き放したような音で描いています。
決してロマンティックに美化されることのない、厳しい現実としての死です。
カテリーナの最期は、社会に潰され、愛に裏切られ、孤独のなかで迎える無言の抗議とも取れます。
全体としてこの第9場は、物語の総決算であるとともに、ショスタコーヴィチがこの作品に込めた「体制と人間性」への冷徹なまなざしを象徴する場面となっています。
終幕に至る音楽もまた、哀愁と沈黙に包まれ、救いのない運命を物語るように静かに閉じられます。
いやーこれほど陰惨でヒステリックに絶叫するオペラは他に存在するでしょうか。。。?
ショスタコーヴィチおそるべし!
3. 弦楽四重奏曲第8番
(以下は以前に投稿したブログからの引用です)
以下Wikiからの引用です。
弦楽四重奏曲第8番 ハ短調 作品110 は、ドミートリイ・ショスタコーヴィチが1960年に作曲した弦楽四重奏曲である。
作曲者によって「ファシズムと戦争の犠牲者の想い出に」捧げるとしてあるが、ショスタコーヴィチ自身のイニシャルが音名「D-S(Es)-C-H」(DSCH音型)で織り込まれ、自身の書いた曲の引用が多用されることにより、密かに作曲者自身をテーマにしていることを暗示させている。
全15曲あるショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲の中で、最も重要な作品である。
(引用おわり)
15曲の弦楽四重奏曲のなかで最高傑作と評されることが多い作品です。
個人的には、最もポピュラーな交響曲第5番「革命」の第1楽章~第3楽章に曲の構成や雰囲気がどことなく似ていると感じました。
第1楽章は、ショスタコーヴィチ独特の不穏な雰囲気で始まるショスタコーヴィチワールド。
冒頭の旋律は、ショスタコーヴィチ自身のイニシャルが音名「D-S(Es)-C-H」のDSCH音型です。
このDSCH音型は、彼のヴァイオリン協奏曲第1番、交響曲第10番、チェロ協奏曲第1番、ピアノソナタ第2番他、多数の作品中で出現するんですよね。
こんな旋律です。
Tシャツも売ってます 笑
第2楽章は、いきなりアレグロのハイテンポ。かなりカッコイイ!
DSCH音型が絡んで張り詰めるような弦楽器の駆け引きがスリリングです。
Shostakovich: String Quartet No. 8 in C Minor, Op. 110 - II
Escher String Quartet
この楽章、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲のなかでも一番のお気に入りです。
第3楽章は、第2楽章の緊張感を維持したまま展開します。気が抜けない。。。
室内楽曲って、モーツァルトやシューベルトのように大半はリラックスして聴けるものが多いですが、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲はそのスタイルの対極、聴く側に終始緊張を求められます。
第4楽章から終楽章にかけては、断片的なモティーフが現れては消え、そして終盤に向かって淡々と静かに終ります。
陰鬱ではあるが、わかりやすく、エンターテインメント性も兼ね備えた名曲だと思います。
4. まとめ
以上、ショスタコーヴィチの作品のなかでも、特に過激な3作品を紹介しました。
真夏の酷暑なんて、この作品群の放つエネルギー熱量に比べれば大したことない!?
一方で、ショスタコーヴィチは、24の前奏曲とフーガのような極めてナチュラルで内省的な作品も残しています。
これ以外にも、最高傑作と名高い交響曲第4番など、まだまだ紹介したい作品がありますが、とりあえずこれを聴いてみて、ショスタコーヴィチが気に入ったら、ぜひ聴いていただければと思います。
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